サハラ妄想行

さしあたって何が?と聞かれると返事に窮するが、何となく忙しく日が過ぎてゆく。とりあえずは少しずつ本の整理をしなければと思うのだが、何から手を付けたらいいのか、それが分からない。そんな時たまたま手にした本がまた新たな仕事を作ってしまう。
 今回はカロ・バロッハの『サハラ研究(Estudios saharinos)』(1990年)である。何でこんな本を買ったのかといえば、おそらく静岡時代に彼の『カーニバル』(法政大学出版局、1987年)を翻訳したからではないか。それにしても600ページ近くもある大著を訳し終えたばかりなのに、よくもまあそんな気力があったこと。若かったんだなあ、と思う。しかしどうも読んだ形跡はなさそうだ。これも501ページ、しかも14部もの大小さまざまの図版の入った袋が付いている。さすがに本文に組み込むことができずにカンガルーの赤ちゃん並みに扱ったのだろうか。
 仕事というのはこの袋ごと本を厚紙で補強し、袋の分だけ厚くなった背に模造皮革を貼り付けることである。なんでこんなことを、とボヤキながら作業をしているとき、ふとサハラという言葉で思い出したのは森本哲郎さんの『サハラ幻想行-哲学の回廊』(河出書房新社、1971年)である。今回は難なく見つかったが、これも読んだ形跡はない。森本さんとは清泉のときと常葉のときと、二回学生のための講演をお願いして以来、本を出されるたびに送ってくださるなどして文通が続いたが、震災のあとしばらく音信が途絶え、そして2014年に亡くなられたことを後で知った。どこかでもう書いたが、父上が漢学者であられたこともあって、西洋のみならず東洋の学問伝統にも造詣の深い方だったが、こういう知識人、つまり漱石や鴎外以来の日本知識人の本流がここで途切れてしまうのだろうか。そう考えると悲しくなる。
 ヨーロッパの場合は、もちろんギリシャ、ローマ以来の学的伝統だが、スペインの場合はさらにこれにアラビア、ユダヤの知的遺産が加わる。カロ・バロッハのこの本にも随所にアラビア語(?と思う)の注などが入っているが、彼自身がアラビア語に堪能であったかどうかは知らない。しかし同時代のアシン・パラシオス(1871-1944)などスペインには錚々たるアラビア学の伝統があったのだが、果たして現在はどうか。おそらく日本と同じようなていたらくではないかと危惧している。
 前述したような次第でカロ・バロッハの著作は一通り揃っているが、アシン・パラシオスはどうか。急いで「貞房文庫」を調べてみると『スペイン・イスラム思想ならびに神秘思想研究三編』と『キリスト教化されたイスラム』があった。先日来の話に出たイスラム理解に資する本がわが貞房文庫にも少しはあるわけだ。
 話は急に変わるが、このごろ何かの折に肝心の固有名詞が出てこないことが多くなった。今回もむかし或るアラブ人の訳本のコピーを取った記憶が薄っすら残っていたのだが、さて誰の本か、どうしても思い出せない。仕方なくグーグルでアシン・パラシオスの項を見てみたら、なんとその名が出てきたではないか。そうだガザーリ、ラテン名アルガゼル(Algazel)だ。念のためアマゾンでアルガゼルの名前で検索したところ、これも運よく訳本の題名が出てきた。アヴェロエス著『(アルガゼルの)哲学矛盾論の矛盾』(田中千里訳、近代文芸社、1996年)である。なぜこんな七面倒くさい訳本のコピーなんぞ取ったのか、それさえすでに忘却の彼方。そのコピー本、どこかにあるはずだけど探すのはそれこそカッタルイので勘弁願おう。
 いや正直に言うと、実は探し始めてすぐ、もの凄いものを見てしまったからだ。大工さんに頼んで夫婦の居間の西側の押入れ上半分を解体し、そこに窓をつけ、新たにできた棚の上に四個ほど中ぐらいの背の本棚を置いていたのだが、先ほど見てみるとそのうちの一つの下段がものすごい虫害に逢っていたのだ。おそらく十年はそうやって放っておいたので、いま現在は虫(紙魚だったろうか?)はいないが、何冊もの本の中が食い荒らされて巨大な空洞になっているではないか。何年か前に北側廊下の本棚が被害に遭って大騒ぎをしたが、油断してました、こんなところもやられていたわけです。
 四冊ほどの書名を辛うじて判読して貞房文庫からそれらを抹消したあと、急いで大きなビニール袋に残骸を入れ、次のゴミの日に出すつもりだが、油断してました。他の本棚などには小さな袋に入った防虫剤を満遍なくばらまいていたのですが、この西側の本棚のことはすっかり忘れてました。
 そんなこんなでサハラ砂漠のことなど吹っ飛んでしまったが、閑話休題といきましょう。と言って今のところ特に書き継ぐこともない。ともあれとうぶん前述の本たちを机の傍に置いて、ときおりはサハラに思いを馳せようとは考えている。ここでもう一つ白状しなければならないのは、こんなすったもんだにもめげずに、森本さんの「あとがき」にも出たきたもう一つの名前が頭から離れず、とうとうその人の本と伝記をアマゾンに注文したことだ。その人とはシャルル・ド・フコー。1858年、ストラスブールの貴族の家に生まれ後に軍人となってモロッコに、帰国後の1890年に厳律シトー会に入り、再度アフリカに行ってトゥアレグ族と行動を共にし、彼らの文化を調査したが最後は暗殺されたカトリックの神父にして探検家・地理学者である。
 注文したのは彼の『霊のあふれの手記』(沢田和夫訳、サンパウロ社、2000年) と彼の伝記J. F. シックス著『シャルル・ド・フ-コー』(倉田清訳、聖母の騎士社、1998年)の2冊である。2冊で送料込み865円だからいいようなものの、このサハラへの突然の憧憬に自分でも驚いている。しかし森本さんのようには、そしてわが友・立野さんのようには行動的旅行家ではなく、フーコーのように観想家と言いたいけどそれも無理、ともかく旅先でも絶えず帰巣本能に苛まれる単なる内弁慶の夢想家なので…どこかから、本の値段などどうでもいい、肝心なのはお前にそんなもの読む時間があるのかつーの!という怒声が聞こえてきましたので、今夜はこの辺でお開きにします。スンマソン、この古ーいギャグ誰のものだったかも忘れてますが……いつまでくだらないことぐだらぐだらくっちゃべってんだーっ!いずれなんでも忘れるよーになっとー! いやいやごもっとも、でもそんな悲しいこと言わないでくださいな、もう引っ込みますから…


翌朝の追記 昨夜、上の文章を書いていた時、とつぜん文の一部が消えてしまった。時折起こる事故だ。で、いま読みかえしたところ、アヴェロエスについて書いた部分がすっぽり消えていた。ご存知の方が多いとは思うが、彼のことを少しだけ紹介しておく。先日の自爆テロの際にも触れたことだが、12世紀スペイン、特にトレドとコルドバは一度ヨーロッパからほぼ消えていたギリシアやアラビアの知的遺産の再流入の拠点だったが、このアヴェロエスもその立役者の一人である。アヴェロエス(スペイン語読みではアベロエス)はラテン名で、本名はイブン=ルシュド、1126年コルドバ生まれのイスラム哲学者・医学者だ。アリストテレス哲学の注釈を通じてイスラムの信仰とギリシア哲学の融合を図ったが、のち異端視された。以上補足説明である。
※※もう一つ抜けていました。彼の没後800周年のアンソロジー(1998刊)が我が貞房文庫にもあるということ。さてどこに隠れているか、今後の探索に待つしかありません。

*10日の追記 コルドバでほぼ同時期、最高のユダヤ哲学者マイモニデス(アラビア名イブン・マイムーン、ヘブライ名モーシェ・ベン・マイモン)も生まれたことを忘れてはいけない。1135年、コルドバの名家の生まれで、のちユダヤ人弾圧を逃れてモロッコ、パレスチナ、そしてエジプトに移る。その思想は新プラトン主義的アリストテレス哲学に立つ。わが貞房文庫にも彼の『五通の書簡』と『迷える者の手引き』(いずれもスペイン語版)があったが未読のまま。探し出して読まなくちゃ。
**同日の再追記 むかし読みかけて放っておいたW. M. ワット『イスラーム・スペイン史』(黒田壽郎・他訳、岩波書店、1976年)に再度挑戦の必要あり。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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