ぐだら話

「今日もぐだら話続けよか」
「なんだい、そのぐだらっちゅうのは?」
「ぐだぐだ、と、だらだらの合成語」
「ばからしい。で何を続けるんだい?」
「昨日の虫害話の続きさ。実は今になって後悔してるのは、虫に食われて廃棄した4冊の本のデータを蔵書リストから抹消したこと」
「それは当然の処置でしょ? だって廃棄したんだから」
「それはそうだけど、データはそのままにして、虫害に遭ったので本書は廃棄しました、日付…くらいの対応をしてやるべきだったと思ってる」
「小さなことにいつまでこだわってる? 他にするべきことあるんだろ?」
「いやさ、そのことなんだけど、これから先、どこにも行かない、いや行けないし、幸いなことに死ぬまでまあまあ餓死することもないという境遇で、しかも差しあたってこれという課題もない、ていうことは」
「ていうことは」
「合いの手はいらないよ。言いたいのは目の前のことを一つひとつていねいに扱いながら生きてゆくべきだっていうこと。つまりだね、以前書いたことがあるが、ちょうど自分の巣穴を自分の唾液でていねいに塗り固めたり補修したりする昆虫のように」
「あらあら、やっぱ虫にこだわってるんだ、でも今回の話とどう繋がる?」
「繋がってますよ。リストから抹消したのは、正しい判断だったかも知れないけど、その際の遇し方、扱い方…」
「よせやい本様に対してかい?」
「でもデータは残さなかったのは結果的には良かったかも」
「何を言いたいんだか、さっぱり分からん」
「つまりだね、辛うじて虫害を免れた他の本から、また新たな展開が…白状すると、そのことに引き摺られて新たに本を注文したりしたので、もしも抹消していなければ今ごろまた何とか身代わりを探していたかも知れないからさ」
「そんな君とはとても付き合いきれないけど、仕方ないな、これがわれわれの宿命だから」
「すまん。詳しく言うとだね、廃棄したうちの一冊は実はコピーで作った手作り本でね、イギリスのスペイン研究者レイモンド・カーの『スペイン――1808-1975』という本(西語訳)の最後の部分に当たるもの。そして幸か不幸か、辛うじて残ったのはその本の真ん中部分」
「つまり三巻中、最後のものは虫にやられたけど真ん中の部分は残ってたんだ。で、最初の部分は?」
「分らん、どっかにあるはず。それでね昨夜、その残ったコピー本を見ているうち、そんな総ページ700ページ近くもある本をどこでコピーしたのか、たぶん清泉女子大の図書館の本からだろうな。で後半部がなくなったからといってこれまで廃棄するのは可哀そうだ、いやそれをコピーした苦労を無にすることはできない、せめて新たに厚紙と布で見栄えよく装丁でもしてやろうと思ってね」
「ま、君の仕事というより趣味だから、それもいいんじゃない」
「補修作業は済んだけど、それで終わらなかった。つまり無くなった部分もなんとか補ってやりたくなってね。で、アマゾンで検索したら、さすがに同書の西語訳はなかったが、“Carr, Raymond; Modern Spain, 1875-1980”というペーパーバックが見つかった。つまり対象年度が少しずれてはいるけど廃棄した部分となんとか重なる内容らしいんだ。古本だから値段も手ごろだったし」
「まっ、それで君が満足するならいいでしょ」
「ところが話はまだ続く」
「勘弁してよ。これから先はもうだれも読まないよ」
「はっきり言うと、誰も読まなくても私ゃ書きます」
「どうぞどうぞ」
「辛うじて虫害を免れた本たちの中に、マックス・アウブという人のブニュエルとの対話(Conversaciones con Bunuel)という566ページもある本があった」
「分かった、今度はブニュエルのCDがほしくなったんだろ?」
「当たり。たしか彼のメキシコ時代の古い映画のCDはどこか家の中にあるはずだけど、フランス映画の…」
「これも分かった、『小間使いの日記』だろ?」
「半分当たり。というのはそれはかなりの高値でちょっと無理。それでVHSの『昼顔』の1円のが見つかった」
「ああそれでか、昨日ごそごそVHSのプレイヤーをいじってたのは」
「ところが長い間使わなかったせいか、動かない。でもその時その傍で思わぬ見つけものをした。これもいつ手に入れたかすっかり忘れていたけど、あの亀井文夫の『戦ふ兵隊』のビデオ・テープだ。わが町出身のあの亀井文夫の昭和14年、つまり私の生まれた年に作られた名作のVHSだ」
「そうかそれでいつかはデッキを動くようにするつもりで、この際ブニュエルの『昼顔』も、か。最近若手の女優主演の団地妻かなんかの映画にリメイクされたしね」
「そんな下らぬもの見る気もしないが、カトリーヌ・ドヌーブが出たブニュエルの映画なら見てもいいな、と思ってね」
「さあ。これで今日のぐだら話はお開きだね」
「んにゃ、まだ終わらね。さっき話したカーの西語訳のコピーをいつ取ったのか考えているとき、それが出版の翌年、つまり常葉に移る前の年の1983年だったらしいと思い、確かめるため当時の記録を調べていたら、同年すごい事件があったことが分かった」
「脅かすなよ、今度は何だい?」
「その年、つまりコピーを取った年の3月14日(日)、教え子のK君の出版祝賀会に行くため、当時住んでいた鎌田の家から美子に車で二子玉川まで送ってもらう途中、事故にあったのだ。その時の日本火災保険による示談書のコピーがちゃんと残っていた。そのままここにコピーしよう。

事故発生の場所   鎌田3丁目1-3先路上
事故発生年月日   3月14日午後5時20分頃
被  害  者   世田谷区喜多見2(以下省略)M・S子 Tel省略
事故 の 概況   上記日時場所T字路交差点に於いて右折しようとした加害者車両と、右方から進行してきた被害者車両と出会い頭に衝突し、M・S子が負傷したもの。
示談 の 条項   加害者側はM・S子に対し、その治療費、慰謝料、休業補償費、その他生涯事故に関する一切の費用として\422,622円を支払う。但し治療費\154,720円は既払いに付き、その差額\267,902円を支払うものとする。以下余白。

※ 上記の条件をもって示談解決いたしました。今後いかなる事情が生じても双方とも本件に関し損害賠償、その他名義のいかんにかかわらず一切の異議申し立てをいたさないことはもちろん、訴訟等の行為を放棄いたすことを確約いたしましたので、後日のために本示談書3通を作成し、双方連署、なつ印いたします。」

「へー、事故があったことや相手はスクーターに乗っていて、直接ぶつかったわけではなく、避けようとして転倒した際の擦り傷程度だったとは覚えていたけど、へーかなりの示談金を払ったんだ」
「そのS子さんもかえって恐縮してたけど、運転手の前方不注意は不注意。それ以来美子は注意して、以後まったく無事故」
「今は身動き一つできなくなったけど、美子は普通の女性ドライバーより運転が上手で、交通量の激しい東京の街をすいすい乗り回してた時代もあったわけだ」
「そういうこと。良かったねそういう時代もあって」
「そうだね。ぐだら話も最後の最後に来て、いい思い出話になって、良かったよかった」
「あっそれ寅さん話の住職・笠智衆の真似でしょ?」
「あらあらもう2,850字にもなったよ。ここらでほんとにお開き」

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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ぐだら話 への7件のフィードバック

  1. 中野 恵子 のコメント:

    いつも愛読させていただいております。
    今日のくだら話!感銘を受けました。
    【これから先、どこへも行かない、いや行けないし、幸いなことに死ぬまでまあまあ餓死することもない境遇で、しかもさしあたってこれという課題もない】とは正に77歳になる私の在りようを端的に表現してくださいました。そして【目のまえのことを、一つひとつていねいに扱いながら生きていく】という見事な答えもお示しくださいました。気力体力の低下はいかんともし難く、精神のバランスを保ち、行き切る大変さを実感している昨今、お言葉、指針として受け止め大事にしてまいります。ありがとうございました。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    中野恵子様 しばらくでした。といっても中野さんはいつもお寄りくださってたんですね。ありがとうございます。ときどき読んでくれる人などいないような寂しい気持ちになりますが、こうして声をかけてくださると元気が出ます。確か私と同世代ですよね。お母さまはお元気ですか? ともかく世の中だんだんおかしくなってきてますが、負けないで元気に頑張りましょう。またお気が向いたら何時でも声をかけてください。

  3. 阿部修義 のコメント:

     美子奥様が運転がお上手というのは、運転技術だけでなく東京の地理にも精通されているからだと思います。東京は山手線に沿って明治通りがあり、放射状に山手通り、環七、環八が広がっています。それらの環状線を日本橋方面に向かって交差するように春日通り、本郷通り、白山通り、目白通り、靖国通りなどが複雑に絡み合っています。その当時はカーナビは無かったでしょうから美子奥様の頭の中に詳細な東京の地図が記憶されていたと思います。山手線の各駅の周辺は人の通行も多く、複雑な道路標識と警察官も至る所にいますから初心者の方ですと相当神経を使って運転しないと事故や違反になりかねません。先日、池袋のジュンク堂という本屋に先生と立野さんの本を買いに車で出かけた時に、明治通りを左折して駐車場に入るところ赤信号でやくざ風の男が横断歩道を渡ろうとしているのでクラクションを鳴らしたら私の車の助手席側のドアを開けて罵声を浴びせられました。赤信号ですよと冷静に対応しましたらそのまま去って行きましたが、人ごみの中左折するだけでも神経を使います。

  4. 立野正裕 のコメント:

    佐々木先生
    今回はルイス・ブニュエルの映画のことが出てきますね。それに引かれて連想したことを少し書かせていただきます。
    佐々木先生もブニュエルの映画はお好きなようですが、わたしもそうです。ブニュエルの上映会があると片っ端から見て歩いていた時期が二十代後半のころにありました。『アンダルシアの犬』や『糧なき土地』、『昼顔』や『小間使いの日記』、『銀河』や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』、それからメキシコ時代の諸作も含めて、ほとんどのブニュエル作品を見たと思うのですが、じつを言いますと、見てもなにがなんだかよく分からない作品もありました。ですから、ブニュエル映画への理解の程度となると、てんでたいしたことはないわけです。
    そういうわたしですが、ブニュエル映画で最も強烈な印象を与えられたのは、メキシコ時代に撮った『忘れられた人々』です。安易な人道主義や性善説や人間への信頼といった耳に心地よい道徳的な託宣を徹底的に侮蔑しきったあの非情さに、心底わたしは打ちのめされました。主人公と同じように、自分も崖から突き落とされたような気さえして、映画が終わって劇場を出てからも、空腹だったはずなのにまるで食欲がわかず、トボトボと暗い夜道を歩いて帰ったことを覚えています。先生もごらんになっておられますか。
    ブニュエルは若いころ、画家のサルバドール・ダリや詩人のフェデリコ・ガルシア・ロルカととても親しかったのですね。この三人の交友を扱った本や、ブニュエルとダリのそれぞれの回想録はわたしも興味をもって読みました。シュールレアリスムの洗礼を受けたこれら才能ある若き現代芸術家たちの肖像に思いを馳せるたび、スペインへの興味と憧れを掻き立てられたものです。
    ブニュエルがアメリカのダルトン・トランボ演出の映画『ジョニーは戦場へ行った』を見たときの感想を語っているのを、かなり以前に読んだことがありました。トランボが自作小説を自らメガホンを取って映画化した作品なのですが、1930年代作家としてトランボも意識の流れやシュールレアリスムといったモダニズムの潮流のなかで小説を書いていました。ですから原作でも映画でも、意識の流れを思わせる饒舌やシュールな場面が描かれていますね。とはいえ、あれはブニュエルの影響もありました。
    事実、メキシコ時代にブニュエルは映画にするつもりでシナリオをトランボに書かせ、二人はしばしば語り合い、シナリオは共同脚本とするところまで行ったのを、ブニュエルが辞退したそうです。資金繰りがうまくいかず企画は流れてしまいましたから、約十年後にトランボが自分で演出することにしたのです。
    しかし、ブニュエルは映画を見てこう言いました。あまりにも長すぎるし、夢の場面はアカデミックな処理で終わっている。シナリオで自分が出したアイディアはわずかしか生かされていない。だがそれでも、面白いところが残ってはいる。
    事実そうであるとわたしも思います。トランボが脚本は自分で書いたとしても、ブニュエルに演出を頼まなかったのはいかにも残念に思われます。そもそも原作を読んだときから、本を読んでこんなに衝撃を受けたことはない、まるで拳骨で殴られたような気がした、とまであの『忘れられた人々』を撮ったブニュエルが言っているのです。
    物語のどういうところにかれは関心をいだいたのでしょうか。シナリオ段階でブニュエルが提案したさまざまなアイディアとは? あのハリウッドきっての名脚本家のトランボが、いっそ共同脚本ということにしましょうと申し出たくらいですから、それだけでも興味津々です。いずれにせよ、ストレートに反戦を訴えるような展開にはブニュエルはしたくなかったでしょう。
    戦場で砲弾に五体を吹き飛ばされ、肉の塊となりながらも、かろうじて生殖器官と意識のはたらきだけは残った労働者階級の素朴な青年が主人公です。一個の「檻」と化した肉塊に閉じ込められたままで生きねばならなくなった主人公は、その若々しい意識を急激に成長させ、精神的にしぶとく生き続けます。子供のころ覚えたモールス信号を思い出し、五体を上下に波打たせることで周囲に言葉を伝えようとします。いっぽう内部では、さらにその何層倍もの量で記憶の映像と言葉の奔流とがかれの意識のなかに押し寄せます。二十歳にもならぬ若者の旺盛な「生命」と「意識」と「記憶」のひしめき合いを、原作は力強く描き出しています。
    しかし、映画は原作のそれを十全に映像化し得ていないとブニュエルは考えました。
    ではブニュエルならどのように表現したでしょうか。いまとなってはあれこれ想像してみるだけですが、そこにわたしの興味が募るのは、長年にわたってフランドルなど激戦地跡を訪れてきた経緯も関係しているようです。
    ジョニー青年のような肉塊に変わり果てながらも、意識は健全なまま復員した将兵の話を、わたしはいくどか資料で読んだり、写真で見たり、話に聞いたりしてきました。戦争は終わっても、かれらにとってはそうではなかったのです。自分の人生の長い戦いがそこから新たに始まったのでした。

  5. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    立野さん、またまたすごいコメントありがとう。先日の澤井セミナーハウスでの映画談義もよかったけど、ここでのブニュエル論、脱帽です。映画について(も)無尽蔵の引き出しがありますね。ブニュエルについて小生ほとんど知りません。ただ昔、林達夫さんが亡くなられるちょっと前、あとがきかどこかで、これからブニュエル(ともう一人誰だったか忘れましたが)についてぜひ調べて書くつもりだとか言っていたのを読んで、すごい知識欲だなと感心したことを覚えています。
     それから『ジョニーは戦場に行った』ですが、貞房文庫の映画コーナーにVHSとDVDに直したものがありますが、勇気がなくてまだ観てません。ブニュエルとの関係も初耳でした。またいろいろ教えてください。

  6. 立野正裕 のコメント:

    佐々木先生、
    故林達夫先生が明大文学部におられたころ、わたしは学部と大学院で講義を受けました。学部では西洋文化史という基幹科目で、新学期に500人の学生が碩学の講義を受講するのですが、講義がさっぱり理解できない。雲の上を行く仙人さながらに学生たちの目には映ったのです。したがって週を追うごとに人数が少なくなっていき、500人が300人に、300人が100人に、100人が50人に、そしてしまいには20人ぐらいになりました。この20人も常連としてコンスタントに出席したわけではなく、欠かさず受講し続けたのはせいぜい5,6人だったでしょう。その一人がわたしだったのですが、試験となると再び500人が詰めかけます。
    ところが試験の結果と成績は、ろくに出席しなかった連中のほうが皆勤賞もののタテノよりもよかったのです。
    大学院では芸術哲学を受講しました。小さな演習室に数十人が押しかけるので、いつも椅子を持って行って廊下で講義を聞きました。ところが、そのころ学生運動が激化し、林先生は大学に来られなくなり、一年の半分しか授業がありませんでした。そしてそのまま定年退職されたのです。
    思いもよらなかったことですが、その後数十年たって、このわたしが西洋文化史を担当することになりました。文学部の基幹科目の一つですから身に余る光栄でした。が同時に、なにか人生のアイロニーに満ちためぐり合わせのような気もしました。学生時分、けっして優秀ではなかった自分が、碩学の後を襲うことになろうとは。泉下の林先生が苦笑されているのが目に見えるような気がしたものです。
    今年3月にわたしも定年退職しましたが、およそ二十年の長きにわたって毎年西洋文化史を担当させられました。その間いわば十字架を背負って歩いてきたようなものです。
    さて、林先生について前置きが長くなりました。ブニュエルのことをちょっと申したかったのです。晩年の林先生がブニュエル研究に意欲をお持ちだったということを、わたしはついぞ知りませんでした。ブニュエルに関心を持っていらしたことは事実です。たとえば久野収との対談『思想のドラマトゥルギー』のなかでブニュエルが話題に出ていますが、意外なことに『昼顔』なんか先生は全然評価していませんね。フロイトの抑圧理論をブルジョア階級に当てはめて見せた通俗版にすぎないと思われたのかもしれません。
    ブニュエルの他の作品についても意見をお聞きしたかったところですが、わたしの記憶では、ロルカとの関連で言及されたことがあるくらいでした。前衛的なものと土着的なものとの統一、という点から林先生がロルカの戯曲を語られ、ついでにアンダルシア時代のブニュエルとダリの映画『アンダルシアの犬』はかれらの共通の友人ロルカをからかう意図があったと話されました。
    その後ブニュエルの回想録を読んで分かったのですが、じつはブニュエルはロルカを高く評価していました。とはいえ、詩人や劇作家としてロルカを高く買うのではないと言っています。むしろ、ロルカの人間像そのものが一個の芸術だったというところにブニュエルは最大の評価を与えていて、遅ればせになるほどと思った次第です。と同時に、こういう疑問もいだきました。前衛的なものと土着的なものとを統一して新しい悲劇を生み出そうとしたロルカの仕事を、あのブニュエルが評価しようとしなかったのはどうしてだろう。
    この疑問をわたし自身のほうに引きつけて申しますと、遠野物語のような土着的なものと、宮沢賢治の童話に見るようなモダニズム的なものとを統一して、ロルカの言うアンダルシアの「ドゥエンデ」との対応物を、東北のなかにも探り当てようとする試みが必要であるということになります。その意味ではロルカもブニュエルも、さらにはダリも、同一の視野に入れて考えなければならないわけですが。
    立野拝

  7. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    立野さん、お早うございます。そうでしたね、立野さんは林達夫さんの後継者だったんだ。むかし神田古書街への行きかえり、明治大の側を通るたびに、半ば植民地大学めいた私の出身校とは違う、いかにも日本古来の大学といった印象を持ったことを覚えてます。確か卒業生の倉橋由美子も一時期教壇に立ちませんでしたか。
     今朝アップした「スケベ考」では言わずじまいでしたが、コバヤシ・ヒデオにしろハヤシ・タップにしろ、批評家としては一流かも知れませんが、どうも教師としては三流ですな。給料なんて当てにせずとも食っていけるとはまさか思ってのことではないでしょうが、でもやはり給料泥棒であることは間違いありません。「スケベ考」のX先生もとてもいい先生でしたが(もうお亡くなりになりました)、あるとき我が家で一人の教え子(女性)と食事を共にしたとき、その彼女を見るX先生のまなざしにスケベったらっしいものを感じて、後から家内ともどもがっかりしたことを覚えてます。教師である以上、もっとシャキッとせい、と思ったわけです。
     すみません、映画談義から思わず大きく逸れてしまいました。

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