遅すぎた覚醒

先日、執行さんや立野さんたちとの会話で、話題がたまたま蔵書整理に及んだとき、お二人は異口同音に同じ本を再度購入することがあると嘆かれた。それに対して私は、すべてネット(貞房文庫)に登録しているから重複することなどないと言い切ったのだが、昨日と今日にかけて二冊も二度買いしていたことに気付いて落ち込んでいる(でもないか)。
 一つはこのところ早乙女貢の『会津士魂』に刺激されて、会津藩出身者の本を(もちろんすべて例の破壊された値段近くで)何冊か注文したのだが、そのうちの一冊、中村彰彦の『二つの山河』(文春文庫)の表紙絵をどこかで見たような気がしながら注文したあと、貞房文庫の著者名検索で、読まれないまますでに我が家のどこかにあることが分かったのである。これは徳島の板東収容所の所長、真のサムライと讃えられた会津人・松江豊寿の伝記で直木賞受賞作品である。話の内容は以下の通り。

 大正初め、第一次大戦でドイツに宣戦布告した日本は、中国大陸で多数のドイツ人を俘虜とし、日本に送った。多くの収容所は過密で環境は劣悪だった。そんな中、徳島の板東収容所では実に寛容な処遇がなされた。彼らも祖国のために戦ったのだからという所長のはからいで、ドイツ人俘虜によるオーケストラが結成されたり、日本人将兵・市民とドイツ人俘虜との交歓が実現したのだ。彼が陸軍の上層部に逆らってまで信念を貫いたのは、国のために戦ったにもかかわらず逆臣の汚名を背負って辛苦をなめた会津出身者の思いからだった。

 もう一冊は、朝日新聞テーマ談話室編の『戦争』である。つまり一方は単行本上下2冊、もう一方は文庫本3冊と見た目も違うし、登録の際、発行所が前者は朝日新聞社(1987年)、後者は朝日ソノラマ(1990年)だから、という言い訳も成り立つが、しかしどちらも読んでなかったことがこれでバレバレ。面目ない。
 文庫本の方はとっくに分厚い合本になっていたが、今日は罪滅ぼし(?)の意味を込めて単行本2冊を見栄えのいい合本にした。そして作ったあと、適当に何篇か(つまり読者の短い応募原稿から成っている)を読んだのだが、読んでいるうち不覚にも涙がであふれてきた。終戦時6歳そこらであった者にしか分からないだろう感情の動きである。
 いやこれは私だけの追体験や懐しさで終わらせてはいけない。これまで意識して戦争体験(もちろん少年時の)を語ったことも書いたこともあまりないが、しかしこれからは機会あるごとに語り継いでいかなければならないと思い直した。特に現今の防衛相をめぐるドタバタ劇を見ていると、その感を強くする。あんなやつらにまたぞろ戦場に駆り出されるようなことは絶対に許せない。辞任発表後、只今の心境はと聞かれて、彼女にこにこ笑いながら何て言ったと思う? 「空です、空」 ザッケンジャナーーーーイッ 禅問答じゃあるまいし。クウ? お前の頭んなか脳みそなんかこれっぽっちも無いってことかーっ!
 おそらく安倍親分のため自分は犠牲になったんだなんて思ってるんだろうな。つまり救国のジャンヌ・ダルクを気取ってんだろ。でもお前になんぞ国が救われてたまるかってんだい。せいぜい親分の何か月かの短い政治生命の延命にしかならないんっだっちゅーの。
 先の話に続けて言うと、会津藩関係のいわば基本文献の一つ、山川浩の『京都守護職始末』、上下、平凡社東洋文庫(1972年、8刷)も手に入れたのだが、実はこれは弟の健次郎、すなわち物理学者で、アメリカへの留学後、東大の物理学教授、のちに東大、九大,京大それぞれの総長となった健次郎が兄の後を継いで完成させたものらしく、これの現代語訳をしたのが金子光晴、そして校注を遠山茂樹がやるという豪華な布陣である。
 とここまで来たなら、中村彰彦の会津ものをさらに読んでみたくなったのは自然の流れでしょう。『会津武士道』(PHP文庫)と会津藩士・秋月悌二郎を描いた『落花は枝に還らずとも』(中公文庫)も注文しました。しっかり読まないまま手元にあった星亮一の戊辰戦争関係のものや、明治33年の北清事変での沈着な行動に世界から称賛された柴五郎の『ある明治人の記録』など、とうぶん会津ものにのめり込みそうだ。
 それにしても明治維新再評価のための大事な文献がすでに、しかもかなり公刊されているというのに、「偽りの明治維新」(これは星亮一の作品名の一つ)観がいまだに一般的な見解であり続けているのは、いちど作られた歴史観が修正されるのにかなりの時間を要することの恰好の例のようだ。私自身がこれまで全く考えもしなかった歴史解釈の盲点なのであろう。長州イデオロギーの後継者がなおも日本政治のかじ取りをしているのだから、道なお遠し、なお険し、である。遅まきながら拙者もこれから死ぬまで何とか頑張る所存でござる。

※ 翌朝の追記 合本にした『戦争』、1,100ページにもなる重厚な本となって卓上に置かれている。今朝も数編を読んだが、胸に迫って苦しくなる。よし、死ぬまで毎日(ちょっと無理か)、いや少なくとも当分の間、数編を読むことを日課としよう。4,200通もの貴重な証言である。今朝はシベリア流刑のため行軍する部隊の話だったが、出発前にソ連兵の上官から悪いけど落伍者は銃殺して行軍する、と言われてその覚悟をしていたら、ある中継地の小屋で疲労と空腹で寝ることもできず互いに身を寄せ合っているところに、若いソ連兵が背中にたくさんの背嚢、そして両手に年老いた日本兵を四人も引っ張ってきてくれたのだ。心からなる「スパシーボ!」の大合唱を背に、そのソ連兵は恥ずかしそうに去っていった。
 投稿者の半数はもう他界しているだろう。でも悲惨な戦争そして戦場体験者の声を日本人すべてが心して聞き続けなければなるまい。貴重な本に出合って本当に良かった。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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遅すぎた覚醒 への1件のコメント

  1. 佐々木あずさ のコメント:

    今回のモノディアロゴスも、歴史を織り交ぜながらの知的な内容だなぁと思いつつテンポよく読み進めていくと。。。ちょうど真ん中へんで、登場したのが稲田某。ちょうどニュースに取り上げられた場面に遭遇した呑空庵主。思わず憤懣やるかたなしのご様子で、血圧測定の数値が降り切れんばかりに「ざっけんじゃね~」の雄たけび。美子奥さまのお隣の、本とお写真の知性にあふれたあの部屋のテレビに向かって、瞬間湯沸かし器が大噴火?!している姿が映像化されてしまいました。もちろん、フェイスブックでシェアさせていただきました。あ~、帯広で先生の講演会をやりたい~~~!

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