くたばれ関白宣言!

前にも書いたが、美子の無聊をなぐさめるため(?)、夫婦の居間にはほとんどいつもCDやテープからの音楽が流れている。このところばっぱさんが残してくれた「昭和の流行歌」という20巻物を代わるがわる聞いているが、その曲が流れ出すととたんに気分が悪くなる、というより腹立たしくなる。だったら飛ばせばいいのだが、カセッターまで行くのが面倒で、腹を立てながら美子の食事の介助などしている。
 その曲とは1979年発表のさだ・まさしの「関白宣言」である。なぜ腹が立つかと言えば、小心者のくせに口だけはやたら偉そうな歌詞が気に食わないのだ。さだは一種コミカルな線を狙ったらしいが、「北の国から」とかグレープ名でリリースした「無縁坂」、「精霊流し」などなかなかいい曲があるのに、なんでまたこんな駄作を、と気になってネットで調べると、なんと「発表されるや否やその歌詞をめぐって女性団体などから“女性差別”、“男尊女卑”と反発を受けるなどの騒動となった」との解説があり、とたんにばからしくなった。つまりそれら婦人団体がさだ・まさしの何十倍もアホに見えたからだ。「関白宣言」批判では同じに見えても、その根拠は真逆だからだ。
 急に思い出したが、昨年だったか例の「平和菌の歌」の1番にあった「不美人」という言葉に東京のある婦人グループが女性差別だととんでもないイチャモンをつけてきたことがあった。あまりに馬鹿らしいので、以後拙者の周囲に顔も見せるな、と追っ払ったが、ウーマン・リブとかフェミニストを自称する奴らのかなりの部分は、ただ観念的な女性尊重を言挙げするだけで、本当の意味での女性の尊厳の主張からほど遠い連中であることが多い。
 つまり歌詞にある「柳眉逆立つ不美人」という言葉の意味さえ理解できない頭の固い連中だったということ。だってそうでしょう、どんな美人でも柳眉逆立てれば不美人になりますぞ、という含意が読み取れなかったわけだから。ちなみにわが恋女房のことを言うと、彼女はそうした頭でっかちで観念的な女性運動を毛嫌いしていた。こうした頭でっかちで何にでもクレームをつけたがる女性が最近とみに増えてきたように思える。しかしそれもこれも男が不甲斐ない、情けない存在になっているということの逆証明だが。
 ついでに言うと「おいどんは」などと亭主関白ぶっている、いわゆる九州男児が昔から嫌いだったが(さだ・まさしは長崎出身だからオイドンとは言わないだろうが)、実はそんな男たちを実際に牛耳っているのが九州の女性軍だとはとっくにお見通しである。
 要するに日本という国が一見平和、実は内面グダグダになってしまったということなんだろう。またまた腹が立ってきたのでこの辺でやめておく。だれかモンクアッカ!

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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くたばれ関白宣言! への3件のフィードバック

  1. 上出勝 のコメント:

    佐々木先生

    つい最近のことです。
    ある「女性」と食事をしていた時、私が「女」という言葉を使ったところ、「女」という言い方は差別だというのです。「女性」と言わなければいけないというのです。
    びっくりしました。
    別に差別的な文脈で使ったのではないのですが、その「女性」によると、「女」という言い方自体が差別なんだそうです。
    私が「何でそれが差別になるのか」と聞いたところ、「ワタシ的に嫌なんです」とのことでした。
    この「ワタシ的に」という言い方は、何年か前に「女性」タレントがテレビで言い始めて、流行りはじめたという記憶ですが、私はフンガイして、「あなたこそ、そのワタシ的なんてヘンな言葉使いはやめたらどうか。そもそも、あなたの主観で言葉の使い方を他人にとやかく言えるのか。言葉狩りではないか」などと反論しました。もっときつい言葉で反論したかったのですが、その「女性」の娘さんも同席していたので、この程度でフンマンを押さえました。

    この「女性」によるとモーパッサンの『女の一生』は『女性の一生』という題に改めなければいけなくなるのでしょうね。
    フェリーニの『女の都』は『女性の都』に、ルルーシュの『男と女』は『男性と女性』に。
    円地文子の『女坂』は『女性坂』に、大原富枝の『婉という女』は『婉という女性』に、遠藤周作の『私が・捨てた・女』は『私が・捨てた・女性』に、丸谷才一の『女ざかり』は「女性ざかり」に(なんか卑猥な感じがします)。
    木下恵介の『女の花園』は『女性の花園』に、大河ドラマの『女太閤記』は『女性太閤記』に。
    演歌なんか「女」だらけで全滅ですね。『女の道』、『加賀の女』、『函館の女』、『女のブルース』、『年上の女』等々。
    永六輔さんの『女ひとり』も『女性ひとり』に。
    京都大原三千院、恋につかれた女性がひとり。。。。味も艶も匂いも何もないですね。
    こんな無機質な「女性」という言葉になんでも変えて、それで「男女平等」が実現すると考えているんでしょうかねえ。
    あっ、「男女平等」ではなく、「女男平等」に訂正してお詫び申し上げます。

    思い出しましたが、昔、「オンブズマン」という言葉は女性差別だという御仁がおられました。オンブズマンはスウェーデン語で、男性名詞ではないと説明しても、「マン」がついているから男を意味するというわけです。だから「オンブズパーソン」という言葉を使えというわけです。ここまで来るとただのバカですね。
    実際に「オンブズパーソン」と言う言葉を今も使っているところがあるんじゃないかと思います。

    もうひとつ思い出しましたが、先生の文書の中にも「婦人」という言葉が出て来ていますが、私は「御婦人」なんて言葉、とても好きなんですね。
    ところが、だいぶ前のことですが、「婦人」の「婦」には「帚」という言葉があり、これは、ホウキ、箒のことで、「女性」を家に閉じ込める男尊女卑思想である、と訳のわからない理屈で、「婦人」という表記を廃止した自治体が続出しました。例えば、「婦人局」だったのを「女性局」に変更するとか。
    まあ、これは「女局」にすると、美人局(つつもたせ)を連想しますが、なんで「婦人」が差別なのか理解できませんね。

    智に働けば角が立つ、とは言え、腹が立つというより、ばかばかしくて疲れますね。バカに疲れた男が、いや「男性」がひとり。。。

    それではまた。
    上出

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    上出 勝様
     仕事柄そういう女、おっと失礼、女性に会うことが多いのでしょうな。それにしても女性にまつわる事例のオンパレード、先日も運転免許更新のための高齢者研修で思い知ったことですが、私なら『女の一生』ぐらいしか思い浮かびません。ともかく笑わせてもらいました、ありがとう。

  3. 立野正裕 のコメント:

    佐々木先生、

    虹の写真と新聞にお書きのエッセイをありがとうございました。写真は6月ごろの撮影ですか。虹は梅雨の晴れ間に現われたのですね。
    新聞のほうはブログでも拝見しました。『戦争ー血と涙で綴った証言』に記される戦時体験記を、「平時いかに美辞麗句を並べられようと国は国民を守ってはくれないことを骨身に沁みて味わった世代」として読むとお書きです。
    わたしは現総理よりは少し年上ですが、先生より8歳も年下の戦後生まれですから、「骨身に沁みて味わった世代」とは申せませんが、「平時いかに美辞麗句を並べられようと」国の言うことをけっして額面通りには信じない、という点ではかなり頑なな人間であると思っております。「真っ先に逃げたのが高級将校たち、次に軍隊や警察などの組織体であって、守護されるべき開拓民は置き去りにされ逃げ遅れた」というくだりを証言集から引用されていますが、そのことも繰り返し繰り返し自分に言い聞かせてきました。とはいえ、経験から叩き込んだのでないという弱点を補う必要があるだけに、知識、理性、想像力、感覚を総動員して、経験の持つ重みに一歩でも二歩でも近づこうと日々努めることが重要と思っております。

    わたしは一昨夜高津に戻りました。8月半ばから再度遠野に帰省していましたが、向こうではパソコンもFBも使えないため、隔靴掻痒のもどかしさを禁じ得ませんでした。
    しかもこの夏は千客万来で、ひと月のあいだに五組もの来客がありました。郷土を見てもらいたいと思い、8月前半は、遠野近郊へ出かけたのはもちろん、少し遠出して渋民の啄木の里へも出かけましたが、8月後半は花巻の賢治の里へも行きました。秋から始まる日本文学の連続講座でまず賢治の世界を取り上げることになっているので、啄木、賢治の取材のもくろみから北上川にも行き、川の流れに見入りつつ北上まで南下したほどでありました。あちらで数泊、こちらで一泊といった具合です。
    そんなわけで、ブログを拝見したのは昨夜久しぶりでしたが、モノディアロゴスへのアクセス数が毎度三桁になるにもかかわらず、無言の行を決め込む人たちがほとんどであることに、先生は業を煮やしておられるようにお見受けします。
    この間、わたしはブログにも談話室にもそもそもお邪魔することができませんでした。Wi-Fiのレンタルは高価なため借り受けられませんでしたし、また国内のレンタル・サービスの手づるなどもわたしにはまだよく分かっておりません。
    先生からすれば、発信しても応答がない。帰省中とはいえ談話室を訪ねないわたしなども、結果的には非応答者の一人にほかなりません。先生の苛立ちをお察しし、恐縮しております。

    わたし自身が携帯やパソコンのメールに手を染めて以来、普段よりとみに気が短くなりました。メールに対する迅速な応答が得られないととたんに苛立つ自分がおります。これは瞬時にして遠方の相手方に通信可能となった現代人には往々にして見られる傾向のようです。「即時返信せよ症候群」ででもあるのではないでしょうか。

    いっぽう、十数年来の知友のなかに、ある女性がおりますが、この人がわたしによく手紙をくれるのです。その数、もうかれこれ数百通にもなりましょうか。当然わたしも返事を書きます。しばしば長大な文面になり、相手を閉口させています。仮に二人の往復書簡集を編むとしたら、少なくとも分量的には三、四巻分に匹敵するでしょう。
    しかし、ここにこういう滑稽なことがあるのです。この際ですからお伝えしますが、手紙を投函すると、その人は投函したという通知メールをわざわざ送ってくれるのです。そこに二言三言書き添えてあることもあります。しかも当方も同じことです。ときには二言三言どころか、二十言か三十言も連ねたメールを送ることもわたしには珍しくありません。手紙も長く、メールも長いわけです。
    いっそどっちかにしたらよさそうなものですが、事実として両方の通信手段を併用していることになります。
    手紙は書くのに時間がかかり、郵便切手代もかかりますから、簡単便利なメールにて通信するほうが安上がりです。
    そうしないのは、現今の功利主義に反して、つまりは二人とも手紙を手書きする迂遠さそれ自体が好きなのでしょう。アナクロニズムとか時代遅れと言われるだろうことは、われわれのあいだでは暗黙の前提になっています。
    しかも、その人は小鳥が好きなので、切手も小鳥が描かれている記念切手が毎回使用されています。わたしも通常切手の代わりに記念切手だけは欠かさずに貼りつけます。なかには収集家に見せたら羨ましがられそうな古いものもありますが、かまわず使ってしまいます。そのあたりも共通している点でしょうか。

    その人は知りませんが、わたしは英国または西欧の文人たちの書簡集が好きで、トマス・ハーディやウィリアム・モリスやD・H・ロレンス書簡集は完揃いで持っています。そもそも、内外の作家全集の書簡編を読むのがわたしはむかしからたいへん好きでした。
    とくに好きなのが往復書簡集で、格別の興味と関心をそそられずにはいません。
    しかもその書簡がやり取りされた当時は、郵便事情もいまとはちがって不便きわまりないものでした。
    たとえばドーバー海峡を隔てて文通を交わしたゲーテとカーライルの場合などが典型的にそうです。郵便事情が信頼できないので送ったものが届いたかどうか一言知らせてほしい、とかれらの手紙には書き添えてあります。
    わたしは岩波文庫で両者の往復書簡集を愛読してきましたが、それは人文学的な内容の深さや含蓄もさることながら、まるで時間の流れをまったく異にする次元のちがう世界の対話をでも目撃しているような感じがします。
    ドイツの文豪といずれ文豪となるスコットランドの青年とのあいだの書簡による海を隔てた対話のリズムは、さながらツルゲーネフの散文詩にあるアルプスの巨峰同士の対話を思わせるかのようです。
    おおい!
    といましも巨峰のいっぽうが挨拶を送ります。幾千年もの歳月が悠々と流れ、ようやくもういっぽうの巨峰が応えます。
    おおい!
    そしてつぎの会話が始まるまでまたもや幾千年、といった具合です。
    われわれの時代はもちろん、このような悠長なリズムを決定的に失ってしまいました。それでも、そのような大自然のリズムにかろうじて連なるようなリズムを、心のどこかには秘めて生きたいたいものだと願っています。
    いや、もはやわれわれの内部には存在しないかもしれませんが、ときどきは憧れをもって想起してみる価値と必要はありましょう。
    なぜなら、人間には複数の異なるリズムを同時に持つことが可能であり、それらを重奏させながら生きることが、現代にはなにより重要なことなのではないかと思われるからです。
    これを先生は先刻ご承知で生きてこられた方です。モノディアロゴスには長調もあれば短調もある。その滔々たる言葉のうねりと流れを、欧州の山岳ならぬわが奥州を流れ下る大河川になぞらえても、先生はかならずしも立腹なさらないでしょう。
    啄木が歌い、賢治が子供たちとともに愛したあの東北の大河川をこんどわたしは再訪してみました。ところが、数年前の穏やかな川面の印象とは打って変わり、降り続く大雨をたくさんの支流から次々に集めて増水した川は、色合いも「柳あおめる」どころか、土の色そのものと化し、とほうもなく膨れ上がり、大小の流木とともに渦を巻きながら、ものすごい速さで流れていました。
    そのすさまじさはまさしく度肝を抜かれるような眺めでありました。
    自然の喜怒哀楽のすべてがこの川にはそなわっている、と改めて思わぬわけにはいきませんでした。
    このところ、いつも頭の一角にモノディアロゴスのイメージを置いているわたしの目には、その河川そのものが、14巻にもおよぶ長大な言葉の大河の比喩のようにも思われたのでした。

    立野正裕

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