貧者の一万円

今朝の便でアマゾンンからジョセフ・ラブ著『教えるヒント学ぶヒント』(新潮選書、1983年4刷)の古書が届いた。著者は1992年に62歳の若さ(今の私からすれば本当にそう思う)で亡くなったイエズス会神父・教授・美術家である。美術家などとあいまいな言葉を使ったが、優れた美術論を書くだけでなく、ご自身が優れた画家(木版画・墨絵)・写真家でもあったからだ。さっそく布表紙の美本に仕上げる。
 先日なぜ彼のことを思い出したか、というと、徒然なる物思いの切れ間に「貧者の一灯」という言葉が突然頭に浮かんだからだ。もちろんその意味は「長者の万灯より」貧しい人の心のこもった一灯の方に価値がある、という意味だが、これをもじって別の格言を作ってみよう(このごろ物覚えが悪くなったのを補完しようとしてか、よくそういう遊びをする、特に昭和歌謡曲の陳腐な決まり文句を揶揄しながら)。そうだ「(長者の百万円より)貧者の一万円」では? 貧者が与える方ではなくもらう側と逆にはなるが。そしてその時思い出したわけだ、有難ーい一万円のことを。
 話はずいぶん昔に遡るが、ラブさんとは私がまだイエズス会にいたときから親しく付き合い、私が退会した後も、大半の友人とはそれ以来疎遠になったが、彼は一切変わりなく付き合ってくれ、ある時は南相馬の家まで訪ねてきた。その時、近くの酒屋で夕食の時に飲む美味しいカクテルの材料など仕入れてくれたが、さて何というカクテルだったか。近くの浜で海水パンツ姿の彼がふざけてボディービルダー風のポーズをとった写真が残っているから、季節は夏だったはず。日記を調べれば分かるが、確か私は新婚ほやほやの時代だったと思う。
 それからほどなくして私たち夫婦が双子の赤ちゃんをそれぞれ一人ずつ抱いて上京し、南武線稲田堤で貧乏生活を始めて間もなくのある夏休み、家じゅう探しても一銭も現金が無く、それで思い余って勤め先の清泉女子大の会計課に金を借りに行ったことがある。確か互助会だったかの申し込み用紙の目的欄には家具購入などの項目はあるが生活費などという項目は見当たらず、でもウソを書く気にもなれず生活費に充当と書いたところ、そんな項目はありませんので貸せませんと言われ、なんのための互助よ、と捨て台詞を吐いて会計課を飛び出て、帰途サラ金から金を借りたころのことである。何かの用事で上智大学に行ったとき、門のところで偶然にラブさんに会った。すると彼は別れ際、そっと手に万札を一枚握らせてくれたのだ。生活苦のことなど一言も話さなかったのに、彼はそれとなく分かったのではないか。
 どことなく上品なヒッピー(あゝこれも今や死語か)風の芸術家にも見える神父さんで、お堅い神父さんたちとの生活は、時には苦しいこともあったとは思うが、しかし彼は実に自由に、そして周囲を明るくする人であった。困窮する私にさりげなくお金を握らせるなど、普通の人にはなかなかできるものではない。名前通り愛の人だった。そういう彼であったから、詩人の谷川俊太郎さんや詩人・美術評論家の大岡信さんなどたくさんの芸術家たちと親交があった。
 しかし私たちが静岡に越してからは彼との付き合いが途絶えたばかりでなく、やがて難病に罹り、最後は車椅子の生活になったことを風の噂で知った。彼とあれほどまで親しく付き合ったのに、最後あたりなぜ病牀を見舞わなかったのか、今になって深く後悔している。今朝届いた『教えるヒント学ぶヒント』も、ネットで彼のギャラリ-探索の時に偶然知った情報である。なぜ手に入れることもなく今日に至ってしまったのか、今となってはただただ忘却の底に沈んでいて確かめようがない。しかし彼の唯一の絵本『夜を泳ぐ』(リブロポート、1991年)が二階廊下の本棚にあったことを思い出し、急いで持ってきた。静岡県雲見の里の少年の一種の夢想譚が彼自身の描く11葉の色彩画で語られている52ページほどの本である。つまり彼の死の一年前に出版されたものだ。しかしこれは彼から贈られたのだろうか。その記憶はない。本の最後あたりに封筒に入った6枚ほどの、彼の絵が印刷された絵はがきが挟まっていた。封筒裏に印刷された差出人の名はラブ神父だが住所は稲城市のものになっている。彼が急性肺炎で亡くなった多摩市の病院近くの住所らしい。するとこれは最後の日々、彼を献身的に介護した(と聞いたことのある)その絵本の訳者K・Mさんの住所ではないか。
 実は今さっき、そこに記されていた番号に思い切って電話をかけてみたのだが、「現在使われておりません」と機械音の答えが返ってきて、内心ほっとした。もしご本人が出てきたら、なんて無礼を詫びていいか言葉に詰まったであろうからだ。
 ところどころ記憶が消えて黒い穴が広がる過去。だが強いてその穴を埋めようとはせず、しかし蘇った過去の砕片を大事にそっと静かに眺めることで満足しよう。
 でもラブさん、あなたにもう一度会いたかった。あの時のカクテルを飲みながら、あなたが心から愛した日本の美術や…いや震災を経たにも関わらず、いよいよおかしくなってきた日本、そして貧者の一灯どころか誰もが長者になりたがり、利便追求に己れを失っている日本について話し合いたかった。
 でもそれがかなわぬ今、残された日々、あなたの遺書二冊を読みながら、そしてネットでも観ることのできるあなたのギャラリーを訪ねながら、これまでの空白を埋めるべく、あなたとゆっくり話し合っていきたい、どうぞよろしく。

※ すぐ後の追記
『夜を泳ぐ』がなぜ手元にあったのか、いまやっとわかった。2002年九月十六日のモノディアロゴス(行路社版に収録)にこう書いていた、長いがそのままコピーする。げに記憶とは不確かなものよ。

生まれつき貧乏性なのか、昨年秋から始めたインターネットも、時間の経過とともに料金が加算されるというタクシー乗車賃のようなシステムにどうしても馴染めず、ドキドキしながらネットの海の水際でポチャポチャ遊んでいた。ところがこの三月の相馬移転と同時にADSLという有難いものを使い始めて、ようやく料金加算システムの魔手から逃れ、水際から少し先まで泳ぐようになった。おかげで、この数ヶ月のあいだ、たくさんの新しい友だちができたし、思いもよらぬ出会いや発見が続いた。そのうちの一つに、山梨・秋山工房のミチルさんを介して故ジョゼフ・ラブ神父との劇的な再会があった。彼女からいただいたラブさんの『夜を泳ぐ』(一九九一年、リブロポート)がその時以来机の上に乗っている。静岡県伊豆松崎の雲見という漁村に住む平太郎少年の一夜の海中冒険を美しい水彩画と散文で綴った不思議な絵本である。
本と一緒にミチルさんがくれたラブさんの絵はがき数枚の中に裸の少年を描いたデッサン画がある。平太郎のモデルになった少年ではないかと思われる。思春期前期の少年の裸が実になまめかしい。膝から上の裸像だから当然性器が描かれているが、なまめかしさは単にそこから来るのではない。おそらくそれは少年を通して日本文化や日本人に対するラブさんの深い愛情が滲み出たものだと思う。関心のある方はラブさんの実作品などが展示されているネット・ギャラリーがあるので訪ねていただきたい (Joseph Love Art Gallery)。
そして先日とつぜん、ラブさんとの古い約束を思い出したのだ。急いで引っ越し荷物を探し回り、ようやく二冊の本と訳稿一束を見つけた。著者は両方ともD. ベリガン、そして訳稿はそのうちの一冊を私が訳したものである。D. ベリガンはラブさんと同じくアメリカのイエズス会士であり、徴兵カードを燃やした廉で逮捕されるなど反戦運動家としても有名な詩人である。彼の『ケイトンズヴィル事件の九人』は有吉佐和子訳で出版されている(新潮社)。訳稿のある方は九編からなる一種の現代教会批判論であり、ラブさんが強く共鳴して私に翻訳を勧めたものだ。なぜ手許にそのまま残っているのか。原書の出版社マクミランと日本のカトリック出版社との折り合いがつかないことに嫌気がさして篋底にしまい込んでしまったのだ。ラブさんのためにもこれをなんとか生かす道を考えなければ。


※【息子追記】遺稿として訳書・ダニエル・ベリガン『危機を生きる』(原題: They Call Us Dead Men)を託された。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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