時々、見るとはなしに見ていたテレビ画面で、例えば内戦で身寄りを一瞬のうちに失った幼い子どもの姿など見ると、目の前がぼやけてくる。つまり涙があふれてくる。これって老化現象? でも彼らの姿を平然と見過ごす方が、人間としておかしいんじゃない?
イデオロギーや宗教の違い、あるいはくだらない国境線をめぐって今日も性懲り無くいがみ合い争ってる奴ら、人間としてゲスのゲスと違う? 生活の利便・快適さが至上価値と思って原発再稼働をもくろんでいる奴らこそまともじゃねえってこと、なぜみんなはっきり言わねえんだ。
そんなことを思いながら、在庫がなくなった『モノディアロゴスⅣ』の原稿を印刷し二つ折りにしているとき、震災前の2010年に書いたこんな詩もどきが目に入った。今日も古いものを引っ張り出してきて申し訳ないが、涙もろくなった老人の怒り、いや喜びの声を聞いてください。
呪われてあれ、脳科学者どもよ!
年寄りの涙もろさは、生理学的にじゅうぶん説明できるだと?
言ってくれますねえ、脳科学者さん。
たしかに涙腺がゆるんでるんしょうなあ、このごろやたらと涙もろくなりました。
このあいだなんぞ、妻の手を引きながら公園を散歩していて、
木陰に小さな、可憐な花を咲かせている野草を見て、一瞬眼の前がぼやけましたもの。ひっそりと可愛らしい花を咲かせて、何と健気なんだろう、
だれに愛でられるというのでもないのに。か細い脚をからませることもなく上手に草の上を走る雀さん
だれにも注目されず、目の端の小さな点としか意識されない謙遜な小鳥さん
お前のねぐらがどこにあるかなんてだれも気にもしてない雀さん。お前たちの姿を見てるだけで、鼻の裏が熱くなり、
放っておくと嗚咽に進んでしまいます、でもねえ、それって素晴らしいことじゃない?
涙腺がゆるくなったから涙もろくなったんじゃなくて
あらゆることに対して感じる心を持つようになったから、しぜんと涙腺がゆるむ、つまり因果関係は逆に考えたほうがいいんじゃない?
かのオルテガさんも言ってたじゃないの、器官が機能を作るんじゃなくて、
機能が器官を作るって、つまり感じる心が涙腺をゆるませるのだって!これまで忙しさにかまけて、じっくり過ぎ行く時間をいとおしむ余裕がなかった
いまこうしてやっと、周囲を親しみを込めて見れるようになったのです、
なら、老いることは素晴らしい!シベリア流刑のドストエフスキイが処刑台の上で、今生の別れと覚悟して
周囲に広がる自然を見たとき、それらは何と美しく、そして愛おしく
彼の眼に映じたことか!処刑の恐怖もなしに、ゆっくりじっくりこの世との別れができること
こんな楽しみが老後にとっておかれてたとは、あゝ何たる幸せ!
(2010/6/9)
人間は自然界にあるあらゆる生命と繋がっていて、人間のエゴは神様でもない限り絶対に消滅することはできないけれども、そのことを自覚して年を取るにしたがって限りなく縮小することはできる。心の平安とは、そういう繋がりの中から努めて利他的に生きる、生かされている自分の命に気づくことから生まれるという人生観を、漠然とですが私は持っています。人生という交響曲の中で、先生が「涙もろくなりました」と言われた言葉に、なぜか私は心の平安への扉を開くためのアウフタクトではないかと感じます。