五十年一日


十二月二十六日(火)薄曇り

 九時近くまで寝ていた。目がさめたものは八時ちょっと過ぎであったが、寝床の中でいろいろ考えていた。寝床は文学的発想の温床である。昨日、教会からドゥアメルの『パスキエ家の記録』を借りてきて、それを第一巻の半分まで読んだことから、いろいろなことを考えさせられた。
 生活、生活などと言って、小市民的な生き方にまきこまれてしまって、線の細い、小手先だけの小説を書いて何になるのか。そんなことだったら、自分が修道院を捨てた理由は、無に帰してしまう。捨てた? 捨てたのではないでしょう、離れたのでしょう。
 森川夫妻に、小川国夫や島尾敏雄の真似をしてゆくと袋小路に入ってしまい、あなたがやろうとしていることを表わす文体がつくれない、散文芸術はもっと自由なもの、と言われたが、いま考えてみるとなるほど卓見だなと思う。十年くらいかけて、ゆっくり大河小説みたいなものを書くくらいの意欲を持ちたいものだ。それに、翻訳の方にしたって、たとえばヒロネージャの長編でも訳してみたい気がする。
 満州時代のことを書くにしても、その当時の日本の満州政策など、それを直接に表てに出さなくても、背景に感じられるくらいな奥行きを持たせなくてはならない。そのためには、一次資料を広く読むことである。明治、大正、昭和などの時代の移り変わりも、自分なりにつかみたい。それに神学、哲学も勉強したい。一回限りの自分の一生に、なにをこせこせする必要がある。もっと大きく事を構えよう。
 小川さんは、書けない時には、書く時期が来るまで待つように、と言ったが、ぼくにはいつ書きたくなる瞬間がやってくるのだろう。いや、書きたいとはいつも思ってることなのだが書くための気分や気力が降ってこないのである。
 今日は、昨夜十三枚やったからと安心したせいか、夜になってやっと翻訳にかかった。しかし四枚半やって、もう続ける意欲をなくしてしまった。
 夕方、散歩に出た。はじめ川っぷちの道を歩いてみた。空の色が実に素晴らしく、そのせいか、周囲世界になんとなく気品が出ていた。どぶ川が右側を流れ、目に入る家々は低く、田舎びたものなのだが、でも、なんとなく懐かしい感じを持ったのだ。それから右に折れ(橋を渡って)小学校の校庭の横に出た。中学生の男の子たちが三十人ぐらいサッカーをやっていた。広島や石神井でサッカーをやったときのことを思い出した。ああいう時代は、もう自分に帰ってこないのだろうか。校庭を横切ってみる。コールテン地の上着をイキに着こなしたつもりだが、だがどうもシックリ体に合っていないような気持ちを持ちながら、校庭を横切った。
 それから墓地を通り旧国道を横切り、また川っぷちの道を、こんどは反対側に歩いてみた。だか昔、この近くに知人の家があったと思って、見当をつけた家の表札を見たら「早川、、」という字が目に入った。たしかここの奥さんは母と昔同級で、ここの娘は姉と同学年、しかしなにかの理由から互いの疎遠になったことなどが、徐々に頭によみがえってきた。
 自分の頭の中に線をつけられていた記憶が、眼前の風景の中で鮮明になった感じである。夕陽が、というより夕陽をしのばせる空の荘重な光が、心に不思議な感動を起こす。
 すこし先に農産学校が見えるところから右に、せまい路地に入っていった。見ないうちに舗装されていて、そこにもぼくの知らない様々な人の生が営まれている。左手に警察署があった。いつか何かの用事でここに来た覚えがある。それが何であったか、どうして思い出せない。ブリキ細工かなんかやっている家の路地から、小さな女の子がはしゃぎながら出てきた。買い物帰りらしい、子供をおぶったおかみさんが通る。薄汚れた学生服を着た中学生が、ギーギー音のする自転車に乗って、傍若無人の態で過ぎてゆく。鼻のところに白いバンソウコウを貼ったおばさんが自転車で来る、それとすれ違ったべつのおばさんが、「なんだ、どっかに出ているのか?」と聞いた。バンソウコウの意味を露骨に聞かなかったことで、なぜかホッとした。相馬人は相手の気にするようなこと、相手の弱点など、面と向かって言う、という考えがぼくにあって、それに耐えられない気がしているので、このように急所をはずした言葉のやりとりに、なぜかホッとするのだろう。
 本屋で、小学館のジャポニカと岩波新書の『昭和史』を購って帰る。ギターの一、四、五番線を買う。
 夜「ケンチとスミレ」を観る。面白かった。登場人物が実に生き生きとしている。母の言葉ではないが、深いペーソスに満ちている。スミレが可憐である。

途中からこれはちょっと変だぞ、と思われたであろう。実はこれは今からちょうど半世紀前、1967年の日記なのだ。書くにこと欠いてとうとう昔の日記まで引っ張り出してきたか、と思われるかも知れない。それもあることにはあるが、このところ急に昔の日記が読みたくなって、一冊書棚から持ってきたもので、別に大した内容ではないが、その一月前、約五年にわたる修道院生活から還俗してシャバに戻ったすぐの日々を懐かしく思ったわけだ。二十八歳の自分との再会はちょっと照れくさいが、でも五十年前と今とそうたいして違わない自分に呆れてもいる。文中、森川夫妻とあるのは、そのころ島尾敏雄さんの紹介で知り合った評論家の森川達也氏と小説家の三枝和子さんのことである。お二人ともだいぶ前に帰天されてしまったが、森川さんは僧侶でもあり、兵庫県のそのお寺に一度誘われたのにチャンスを逸した。行っとけばよかったと残念に思うが、それこそ後の祭り。
 ヒロネージャは、スペイン内戦での或る一家の興亡を題材とした『糸杉は神を信ず』( 1953年) などを書いた小説家。そう言いながら実はまだ読んだことがない。なぜ訳そうなどと思ったのかは謎である。実は今アマゾンで調べたら、ペーパーバックで2,800円で手に入る。危うく注文しようとしたが踏みとどまった。今さら内戦問題に踏み込むつもりもないし、それにこれが三部作の一つなので、下手をすると戻ってこれない恐れ(?)があるから。謎のまま残しておこう。
 ともあれあのころ、将来小説家にでもなるつもりだったらしいことが分かって驚いている。現実はその後、結婚、大学教師の道を歩み始めたわけで、創作も小川国夫さんたちの同人誌「青銅時代」にいくつか書いただけである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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五十年一日 への2件のフィードバック

  1. 阿部修義 のコメント:

     1967年暮れに書かれた先生の日記を興味深く拝読しました。この年、小川国夫40歳、島尾敏雄50歳でお二人にとって人生の節目の年であり、先生からすれば人生の大先輩でもあり、文筆家として生きるのであれば目標に値する人たちだったんでしょう。先生は島尾氏を通じて小川氏や埴谷氏などの著名な作家に出会われたことを覚えていますが、先生の『病室から』にある小川国夫の『或る聖書』の書評を以前拝読した時に、先生にとって小川氏は人生をいかに生きるべきかの理想像的な存在だったのではと感じました。その書評の中で、先生は小川氏を一言で言えば「勁い人」と言われていますが、日記の中に「待つ」という小川氏の言葉があるように、ある意味では、先生が生み出された「平和菌」が含有している強さにも通じるものを私は感じています。家族アルバム4ページ下段左にある小川氏のご家族と一緒に撮られた先生のお写真は、この日記を書かれたころのものなんでしょう。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    今回も一人で読むのは勿体ないので、立野さんからの私信、無断拝借です。

    佐々木先生、

     いまわたしは能登半島に来ております。
     旅をめったにしなかった亡母の念願の地の一つだった輪島市に、遅ればせながら老いた息子が代参し、岩手によく輪島漆器を売りに来ていた店を訪ね当て、きょうは一日亡母の思い出を店主親子から聞いて来たところです。かれこれ二十年以上も前の出張販売で、岩手在住の顧客の一人だった母親のことを、親子はよく覚えていてくれて、いきなり訪ねたわたしに向かって、どういうものを母親が購入したかをつぶさに語ってくれたのには驚嘆させられました。プロフェッショナルならではの記憶の確かさ、これぞたつき(生業)の強さというものかと思った次第です。
     ご承知のようにちょうど十年前の2007年3月下旬、輪島市は大地震で甚大な被害をこうむりましたが、津波警報は出されたものの実際には津波襲来はありませんでした。しかし家屋倒壊や道路崩落はひどく、その後復興がはかられたとはいえ、ご多分に漏れず著しい過疎化の傾向が促進され、漆器への国内需要の減少と相まって、有名なこの地の伝統工芸品の生産継承を近年とみにむずかしくしているという話でした。
     亡母は生前ずいぶん漆器を愛好した人でしたが、ことに輪島漆器にはひとかたならぬ熱の入れようでした。座卓、衝立、鏡台といった大きなものから重箱、盆、花器、茶碗、汁椀、香合などの小物類、また有名作家の絵付けによる壁掛けや置物といった装飾品にいたるまで、同じこの店からたくさん購入していました。
     というわけで、生前の母親の漆器好みについては、息子のわたしなどより店主親子のほうがよく知っている面があります。
    おまえは文章を書くのが仕事だから、いつかわたしの一生についても書いてちょうだいよ、小説になるくらい波瀾万丈な人生だったからね、となかば冗談のように言っていた母親ですが、息子は生返事ばかりしていたものです。それが没後七、八年もたってようやく思い立ち、近い将来亡母のことを実際に書こうという気になりました。それで生前の母親を知る人々から、どんな些細な挿話めいたことでも聞かせてもらいたいわけです。

     それに、能登半島へ来たのは他にも目当てがありました。「雲たれてひとりたけれる荒波をかなしと思へり能登の初旅」という清張歌碑が立つヤセの断崖を見ることです。先生もごらんになったことがおありかもしれませんが、清張代表作の一つ『ゼロの焦点』が映画化された際、クライマックス場面のロケーション地として有名になったところです。また同時に、ひところは飛び込み自殺の絶えない場所としても、かんばしくない名声を馳せてきたところです。
     最近刊行した『トルソー』二号に『「或る『小倉日記』伝」を読む』という一文をわたしは書きましたし、二年ほど前には、映画化された『砂の器』をめぐって青森の龍飛崎についての紀行を書きました。本州北端のその岬は、むかし二十代後半の自分が旅をしたところで、小説家志望を断棄して学者(のはしくれ)になろうと腹を決めた場所でもありました。ちょうど母校研究室の助手になったばかりでした。
     いっぽう、目を南に転じますと、清張記念館が久留米にあります。この町がわたしの出生地でもあり、ほど近い小倉は亡父終焉の地でもあります。
     つまり、思いきり我田引水しますと、清張のいくつかの有名な作品に絡んで、わたしは自分の歴史をおおざっぱにたどることも出来なくはないわけです。それかあらぬか、昭和戦後生まれのわたしが、清張作品の昭和史取材にひっ絡めて、親の世代とともに自分の時代を見直してみようとするのも、少なくともわたし個人にとってはなんだか宿題の一つのような気がしないでもありません。

     さて、あつかましくもこんな私事をこうして書き付けましたのは、先生のブログに半世紀前の日記が引かれているのを拝読して、浅からぬ縁のようなものを感じないわけにはいかなかったからです。
     先生が引かれているのは二十八歳のときの日記ということですが、わたしが龍飛崎の巖頭に佇立しながら苦しい(!?)選択を自分に強いたのも、たぶん二十八歳のときのことだったと思われるのです。
     とすれば、あれからことし三月末に退職するまでの四十二年間、、英文学研究者としてまた大学教師として、短からぬ人生を送ってきましたが、研究者としても教師としても、一流にはもとよりなり得ず、ただ文学への執着心のみ保持しながら生きてきたようなものです。

     先生は最後に、「ともあれあのころ、将来小説家にでもなるつもりだったらしいことが分かって驚いている。現実はその後、結婚、大学教師の道を歩み始めたわけで、創作も小川国夫さんたちの同人誌『青銅時代』にいくつか書いただけである」とお書きです。もしも小川国夫を須山静夫とし、同人誌『青銅時代』を同人誌『月水金』と置き換えることをお許し下さるならば、先生のなさってこられたことのせいぜい十何分の一かに過ぎないわけではありますが、自分の経歴を思い起こして言わせていただければ、これもまた「魂の同質性」の一端だろうかとまことに僭越ながら「感に堪えない」次第なのです。

     長々と書きました。夜半過ぎ、能登半島の強烈な風の音を聴きながら。
                         donkeyhut

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