「焼き場に立つ少年」異聞

夕食時、たいていは一番安いベルギー産の缶ビール(発泡酒)を飲んでいるが、さすがこの寒さでは、これまた安い紙パック入りの「鬼ころし」を、それもごく少量飲むことにしている。以前はむしろ美子の晩酌に付き合う形だったが、現在はひとり酒、誠に味気ない。
 ところでこのセブンイレブンの「鬼ころし」だが、他の酒造元から同名の酒がいくつも出ているようだ。なぜ「鬼ころし」の名を持つお酒が多いのか、ネット検索で調べてみると、実はこの「鬼ころし」という銘柄、最初に付けた酒蔵が商標登録を行わなかったため、様々な蔵が同じ名前の商品を発売し始めたそうだ。つまりどこも鬼ころしという名前を独占することができず、現在の辛口パック酒の代名詞的な立ち位置になったという。これで納得。
 でも「鬼ごろし」ではなく、なぜ「鬼ころし」なのか。だってそうでしょう、「人ごろし」とは言うけど、「人ころし」とは言わないでしょう? あゝそうか、「人ころし」ではその残忍性が出ないからか。「人ころし」では、まるで「子連れ狼」の、あの「ちゃん」のように、すこし品がよい(?)刺客(しかく)になっちゃうからか。
 それに「鬼ごろし」だと、粗悪な安酒、純度の低いアルコールに思われるからか。でもこの「鬼ころし」、安いけどなかなかいい酒である。しかし数か月前から、パックの模様が酒に酔った鬼たちの図柄から味気ない字だけの意匠に変わっちゃった。もとの鬼の絵の方がはるかに良かったのに、また「写真はイメージです」なんて「一足す一は二です」と同じくらいアホなメッセージを要求する馬鹿な消費者がイチャモン付けたのかな。
 ついでに言うと、毎食美子のアクエリアスに混ぜて(さらにとろみをつけて)飲ませているイチゴやマンゴーなどのソースも、「鬼ころし」とほぼ同じ時期、それまでの可愛い(?)意匠から意味の分からぬ図柄に変わってしまった。なんでもすぐ変えちゃうなよ。
 そんな馬鹿話からがらっと話題が変わるが、元日の「毎日新聞」ネット版にこんな見出しの記事が載った。


ローマ法王  被爆写真の配布を指示 「焼き場に立つ少年」

毎日新聞2018年1月1日 22時46分

フランシスコ・ローマ法王が印刷して広めるよう指示した「焼き場に立つ少年」の写真(バチカン提供・共同)(ここに写真が入る)

 フランシスコ・ローマ法王は、原爆投下後の長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」の写真をカードに印刷し、「戦争が生み出したもの」との言葉を付けて広めるよう指示した。ローマ法王庁(バチカン)が1日までに発表した。法王はこれまでも核兵器廃絶を呼び掛けており、改めて平和を訴えた。
 バチカンは写真について、亡くなった弟を背負った少年が火葬場で順番を待っているところだと説明。「かみしめて血のにじんだ唇により悲しみが表現されている」と指摘した。
 写真は1945年に長崎で原爆が投下された後、米軍の従軍カメラマン、故ジョー・オダネルさんが撮影した。(共同) 」

 今朝(ということはスペインでは昨夜)マドリードのペドロ・ガージョさんから、「以前君から送ってもらった写真がなぜかカトリック関係の新聞に載っていたよ」とのメールが届いた。
 私もこのニュースを知ったとき、なぜ教皇が数ある原爆関係写真の中からこれを選んだのか、不思議に思うと同時に、さすが目の付け所が違う、と感心した。
 以下の推測は、「鬼ころし」の謎追求と同じくらい、手前勝手な想像(あるいは妄想)であるので、そこんところはよろしく。
 実は去年の終戦記念日近く、ネットで見つけたその少年の写真についてここでも話題にし(八月九日)その写真を友人たちに拡散した。そのうちの一人、前イエズス会総会長でフランシスコ教皇の親しい友人でもある(つまりイエズス会内部ではニコラス神父は教皇フランシスコの上司に当たる)ニコラス神父にも送った。確かその時は総会長職をベネズエラ 出身のアルトゥーロ・ソーサ神父(67歳)に譲っていたと思うが、しかし何かの機会に教皇にその写真を送っていた可能性(あくまで推測)がある。核兵器廃絶に熱心な教皇、もしかしてそのメッセージを発する際に、ニコラス神父から送ってもらっていたその写真を思い出したのかも知れない。
 いや別にそれを私の手柄(?)だなんて強弁するつもりはない。ただ言いたかったのは、ろくでもない誹謗中傷の情報がまるで宇宙塵のように飛び交っている現在、だれでもこれはと思う情報、特に平和への熱いメッセージを世界に拡散することができるということをぜひ知ってもらいたいだけ。
 さあ皆さん、いまからでも遅くはない、ぜひ全世界に向けてあの少年の写真を拡散させましょう。私はあれ以来、その写真を大きくコピーして額に入れ、応接テーブルの上に飾ってます。私にとって、あの少年の凛とした立ち姿がもっとも美しい日本人に思えて仕方がないのです。時に同国人に対する深い絶望に襲われるときでも、あの少年の姿を見て勇気を奮い起こしています。

※ いまガージョさんから送られてきた “Aleteia”(ギリシャ語で “真理” を意味する)というカトリック広報紙のコピーを見ていると、教皇庁から出された写真の説明文、つまり少年の悲しみは、ただそのきつく結ばれて血のにじんだ唇からそれと分かる…のスペイン語は、確か私が日本語の説明文を自己流に訳したキャプションそのままである。「焼き場」(crematorio)という単語を和西辞典で調べた記憶がある。ということは、いよいよその写真がニコラス神父経由のものだという確率が高くなる。もしそうだとしたら、嬉しいし名誉なことだ。
※※ 推測から確信へ
いまその「アレテイア」と言う広報紙に載った教皇庁からの説明文をよく見ると、私の作ったスペイン語が、句読点を含めて一字一句すべてそのままであることが判明。
“Un niño que espera su turno en el crematorio para su hermano muerto en la espalda. Es la foto que tomó un fotógrafo americano, Joseph Roger O’Donnell, después del bombardeo atómico en Nagasaki. La tristeza del niño sólo se expresa en sus labios mordidos y rezumados de sangre”.
 なぜ確信したか、と言えば、それを読んで我が友人(東外大大学院のかつての教え子)古屋雄一郎さんから、スペイン語圏の人にとってアメリカーノは南米人を指すのでここはestadounidense、つまり合衆国人にした方がよくありませんか、というコメントに対して、いや多くの人にとってアメリカ人はその北米人を意味するからこのままでいいでしょう、と答えたことでもそれと分かる。つまりアルゼンチン出身の教皇なら、そこは estadounidense にするところ、私の意を汲んで(まさか!)そのままアメリカーノにしているところから、これが佐々木製のキャプションそのままであることがはっきりした。ワオ!、私のスペイン語が世界中に拡散されている!

Takashi Sasaki, el católico japonés que desafió la catástrofe nuclear

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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「焼き場に立つ少年」異聞 への3件のフィードバック

  1. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    例によって例のごとく、また私宛の私信を、今回は書き手の許しを得て、ここに全文紹介します。佐賀(旧姓赤沢)典子さんは、私の清泉時代の教え子で、卒業後すぐに初代盲導犬コーラルを連れて単身スペイン留学を敢行し、帰国後は資生堂に就職。その後、同じく目の不自由なご主人と出会われて退職そして結婚。以後ご主人の里である岩手県に住み、二人のお嬢さんにも恵まれ、幸福に暮らしてます。震災前、お嬢さんの一人の運転する車で、ご主人と一緒に、そして震災後も旧友二人と再度会いに来てくれました。
     スペイン留学については、『ピレネーを越えて』(東洋経済新聞社)や文部省特選映画『光と風のきずな  私はピレネーを越えた』をご覧になった方も多いと思います。それでは彼女の近況報告のお手紙を紹介します。

    「佐々木先生
    ご挨拶が大変遅くなってしまい、申しわけありませんが、明けましておめでとうございます。
     久しぶりに先生のブログに行ってみましたが、ご家族の皆様ともにお元気で、新年を迎えられたとのこと、本当によかったと思いました。
     一月五日の、「桜咲く」というお話もとてもよかったです。気持がほわっと暖かくなるようなお話でしたね。
     我家もおかげ様で、みんな元気に過ごしております。ただベルは年相応に少しずつ衰えて来て、家の中の階段の上がり降りはできなくなったため、夜二階の寝室に行く時は、夫が抱いて上がり降りしてくれています。寒くなってからは留守番させることが多くなり、私は白杖での独り歩きにずいぶん慣れてきました。
     今年のお正月は、夫の実家でも、一人になった兄が、長男の所に泊まりに行くというので、こちらも、どこにも行かず、のんびり過ごすことになるだろうと思っていたのですが、大みそかには、野乃香たちが泊まりに来て(家を離れて以来初めて)、その二人が帰ったら、今度は、甥が、泊まりに来ている兄も一緒に遊びに行ってもいいかと言ってきて、次の日に一家で遊びに来たので、思っていた以上に忙しいお正月になりました。
     でも、居ながらにして身うちの人たちに会えたのはよかったです。
     夫がしみじみと「うちも行く家から人が来る家になったなあ」と言っていました。それだけ私たちも年をとったんですね。

     今年が先生とご家族の皆様にとって健康で良い年になりますよう、お祈り申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
                        佐賀典子」

  2. 阿部修義 のコメント:

     文章を拝読して、先生の洗礼名はアシジのフランシスコだったことを思い出しました。ローマ法王が印刷の指示を出され、世界に広める「焼き場に立つ少年」のキャプションに先生が関わられたことが、偶然なことではなく、ニコラス神父との長年の温かで、しかも真摯な交流から生まれた必然なことであり、ローマ法王と先生の洗礼名が同じであることも、仏教用語で縁尋機命(えんじんきみょう)という言葉がありますが、北朝鮮の核兵器の現実的な問題が顕在化している昨今の世界情勢の中で、時宜にかなった素晴らしいことだと思います。

  3. 佐々木あずさ のコメント:

    今日、先生と同輩のOさんからお手紙拝受。以下、引用します。

    手紙を書いたのは、「寄りあい処・呑空庵」No.3の裏面を見た時どっきりしたのです。なんとジョー・オダネルの「焼き場に立つ少年」が載っていたからです。私はこの写真を見ると興福寺の阿修羅像の左側の顔を思い出すのです。口もとをグーッとかみしめて前方を見る目は、悔しさ・悲しさを言えない怒りを示しているように見えるのです。戦争は惨いです。少年にこのような顔をさせるのですから・・・。この写真と手紙をローマ教皇に送った方が、佐々木孝先生としってまたビックリです。道新に「ローマ法王カードで平和訴え」の記事にこの写真が載っていたのです。坂井貴美子さん編著の「神さまのファインダー」を読みました。ジョー・オダネルがカメラのレンズを通して訴えたかったことが少しわかりました。佐々木孝先生のお話もお聞きしたいですね。裏を見てドキッとしたことを書きました。

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