平和構築のための強力な布陣

先月28日の「近況ご報告」で最近知り合った韓国のKさんについてご報告したあと、もう一方(ひとかた)について話を進める前にホセ・マリア・シシリアさんとの「思いがけない再会」を語ったまま、いつの間にか月が替わって、今日ははや12日。もちろんその間いろんなことがあったが、中でもスペイン大使館での「いま、ウナムーノを問う」展が大成功のうちに終了したことを挙げなければなるまい。安倍さんからのご報告によれば、最終的な来館者数2,800人。先行したサラマンカ大学での来館者を大きく上回ったそうで、ただただ遠方から気持ちだけの応援しかできなかった私も大きな喜びと、そして勇気をいただいた。本国スペインでも、この日本のウナムーノ・ルネッサンスにはさぞかし驚いていることであろう。
 さてお約束通り最近知り合ったというのではなく約四十年ぶりにメールでの再会を果たした方(かた)について語ろう。先月20日のことだが、思いがけなくスペインはセビーリャからこんなメールが飛び込んできた。

おなつかしい佐々木先生、清泉女子大学スペイン語科の学生でした高原三枝です。覚えていてくださいますか? 私はいつも先生のこと、奥様のことを思い出してお祈りしています。今はセビーリャのカルメル会にいます。1998年から来ていますので今年でもう20年になります。先生にメールをお書きしたいのですがアドレスを教えていただけますか?
 お返事をお待ちしつつ、、、  お祈りのうちにいつも一致して

                          テレサ 高原三枝

 私は昭和45年の四月から清泉の教壇に立ったから、その年入学した高原さんは最初の教え子だったわけだ。昭和49 (1974) 年に卒業してからの彼女の動向は記憶にないが、彼女が昭和55 (1980) 年に山口のカルメル会修道院に入ったことは当時大学の広報紙に書いた次の文章からもはっきりしている。今度の話にも関係あることなので、全文コピーしよう。

★スペイン神秘主義探訪の旅★

いつか正面きってスぺイン神秘主義とぶつからなくてはと思いつつも、なにやかやと雑用が重なり、というより生来のなまけくせが災いして、一日延ばしにのばしてきた。それがこの夏、いろいろな条件が重なってスぺインに行くことになった。六年ぶりのスぺインである。聖テレジアの著作も、十字架の聖ヨハネの著作もまともに読まず、ましてや研究書のたぐいもただ研究室の棚をうめるだけの状態で内心忸怩たるものがあったが、何はともあれ神秘主義の生まれた土地を見ることから始めようと、重い腰をあげることにした。ついでにと言ってはなんだが、この際女房と二人の子供も連れて行くことにした。浮世の重いしがらみを引きつれての神秘主義探訪、と話はいささか滑稽さを通り越して或る悲壮感さえ漂わせはじめるが、言い出した以上後には引けない。それにいまの私には、この形がいかにも似つかわしいと思えたからである。
 つまり神秘主義に対する私の興味は、どう考えても神学的でもなければ、広義の学問的関心でもなさそうだからだ。それでは何か、と問われれば返事に窮するが、あえて言えばきわめて人間的、主体的な関心とでも言えようか。つまり生き方の問題としての興味である。この十数年間、曲がりなりにもスぺイン思想とつき合ってきての私の結論に、スペイン思想の骨格はその個人主義と神秘主義であり、それら二つはスぺイン的生の思想に収斂するというのがあるが、その神秘主義がどうにも分かりにくい、というより、青年期のある時点から勝手に判断停止をきめこんで棚上げにしてきた問題が、神秘主義と深くかかわっているということだろう。ところで判断停止のころの私ならいざ知らず、いまの私は女房と二人の子供と共にあくせく生きている私である。ならばこのしがらみを引きつれてカルメル山の、せめて麓をさまよってくるのも一興ではなかろうか。
 かくして、サラマンカ大学でスぺイン語研修をする学生・社会人のグループとセビーリャで別れて、一家四人の旅は始まった。フォード・フィエスタというにぎやかな名前の黄色い車を借りて、まずは『プラテーロと私』の町モゲール、コロンブスの船出したパロスの港、ふたたびセビーリャを回ってアラルコン『三角帽子』の町アルコス・デ・ラ・フロンテーラ。十字架の聖ヨハネのゆかりの地ウべダ、バエサ、べアス・デ・セグーラ、ついでにアルバセテを通ってドン・キホーテの舞台カンポ・デ・クリプターナ、グアダラハラ近郊イリエパルのカルメル会修道院、パストラーナの修道院、ソリアを通って聖イグナチオや聖フランシスコ・ザビエルの故郷パンプローナ、ハビエル城、ロヨラ、そしてシスター・ガライサバルのいるセストーナ、シスター・ネゲルエラの働いておられるサンタンデール、ヒホンを通ってラ・コルーニャのカルメル会修道院、サンティアーゴ・デ・コンポステーラ、聖テレジアの町アビラ、十字架の聖ヨハネの生誕の他フォンティべロス、その遺体のあるセゴビア……そして最後にサラマンカ。走行距離約四千五目キロ。
 この旅行で体験したすべてのことについていまだ頭の整理はできていないが、荒涼たる岩山、酷暑に耐えるオリーブやひまわり畑、地中海とはガラリと趣きの異なるカンタブリアの海辺を走った肉体は、スぺインの大地の感覚をしっかり刻みこんだようだ。いやそれにもまして各地で出会った人たちの温かさ、寛大さ、親切は忘れようにも忘れることができない。茫漠たる高原の中のイリエパル・カルメル会修道院のシスターたち、まるで肉親を迎えるように歓迎してくださったセストーナの人たち、別れの朝、それまで関節炎で寝ていたシスターまでが起き出して全員で歌をうたってくださったラ・コルーニャのシスターたち……いま想い出しても胸が熱くなる。
 この九月、第二一期卒業の高原三枝さんが山口のカルメル会修道院に入る。ラ・コルーニャから私たち一家の帰り旅を見守ってくれた高さ五Oセンチほどの聖ヨゼフの御像が、今度は彼女を無事山口まで送りとどけてくれるであろう。
(「おとずれ」、昭和五五年十一月十日号、『スペイン精神史の森の中で』所収)

 実はこの短文を読み返すまで最後のくだり、つまりスペインから聖ヨゼフの像を持ち帰って、それを高原さんに託したことはすっかり記憶から消えていた。訪問先のラ・コルーニャの修道院で、教え子の一人がこんど山口のカルメル会に入ると教えたので、それならこの像を、と託されたものらしい。
 それにしてもなぜ今回メールを出すことになったかは、次便で言うにはカトリック新聞9月16日号のウナムーノ関連の記事の最後に私たち夫婦のことが目に入ったかららしい。とにかく20年前からセビーリャの修道院にいたとは驚きである。彼女がなぜカルメル会に、という疑問もその家庭環境、つまり四人きょうだいの長姉が先にその修道会に入っていたことで納得。実は前述の短文からもお分かりのように、各地のカルメル会修道院歴訪の旅で出発点のセビーリャの修道院を訪ねる機会を逸したのは返す返すも残念である。
 その1980年の家族旅行中、当時小五だった双子の息子・娘の唯一の課題として、旅日記を付けることを義務づけたが、それをワープロ印刷で製本したものが『淳と敦子のスペイン日記』として残っている。これによると、ホテル「ポルタ・チェリ(ラテン語で天国の門の意)」で水が中(あた)ったのか私以外の三人が下痢になって、セビーリャ見物どころではなかったらしい。
 ご存知と思うが、修道会には大きく分けて活動修道会と観想修道会の二つがあり、例えば函館の有名なトラピスト (正式名はシトー会) などは観想修道会だし、高原さんのいるカルメル会も観想修道会である。つまり街中で布教や学校経営などをする活動修道会とはちがって、人里離れたところで労働と祈りに明け暮れるのが観想修道会である。今シトー会の名が出たが、実は呑空庵代々木初台支部の中野恵子さんの妹さんはそのシトー会の修道女となって現在アイルランドのコークというところにお住まいらしい。
 「紡ぎ人」を自称・自認する私としては、セビーリャとコークでそれぞれ修道生活をしているお二人を結び付けたく、中野恵子さんを仲介者としてこの度目出たくお二人が繋がったようだ。それにしても片やスペイン片やアイルランドと、日本女性も俗世間だけでなく労働と祈りに明け暮れる聖空間でも世界中で活躍されているというのは実に頼もしい。もちろん私の願いは、彼女たちの強力な祈りによって真の世界平和実現のための橋頭保になっていただくことである。そのための手がかりにしていただこうと先日セビーリャに豆本「平和菌の歌」のスペイン語版3冊と日本語版1冊を送ったところ、今日セビーリャからこんな嬉しいメールが届いた。

 昨日、10日、無事豆本4冊の入った封筒が届きました。ありがとうございました。普段より日数がかかりましたが確かに届きましたのでご安心ください。
 なんとかわいいのでしょう!一つ一つ手作りで、心を込めてお作りになったことがひしひしと伝わってきます。休憩時間に姉妹がたにもお見せしたら、皆、歓声を上げていました。スペイン語の版と日本語版を比べながら興味津々の様子、先生にもお目にかけたかったです。これから少しずつ、回し読みしたり、お知り合いの方に差し上げたりしたいと思っています。核廃絶、世界平和のために先生とご一緒にお祈りをお捧げいたします。お母さまのお言葉、私もいつも心に留めていたいと思います。
 では取り急ぎ、豆本が無事届いたことのご報告と心からの感謝を込めて…。

                               テレサ

 文中「お母さまのお言葉」とあるのは、カルペ・ディエムの歌詞にあるばっぱさんの遺言「しっかり、そしてまじめに」のことである。
 ここまで書いて少々疲れました。彼女については、韓国のKさんともども、これからいろいろご紹介したいのですが、今日はこの辺で止めましょう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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平和構築のための強力な布陣 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     およそ半世紀も前の教え子さんとの四十年ぶりのメールでの再会は、先生にとってはまことに懐かしく、うれしいことだったのでしょう。久しぶりに、『スペイン精神史の森の中で』にある「スペイン神秘主義研究の視点をめぐる若干の考察」を拝読しました。そこにこういう文章がありました。今回の高原三枝さんとの再会は、なぜか、必然のことのように私は感じます。ふと9月16日号のカトリック新聞に書かれてあったベラスケスの『十字架上のキリスト』の絵画が頭を過りました。

     「私は宇宙にとって何物でもないが、私にとって私はすべてである。と言い切るためには、個から普遍へ、有限から無限への跳躍、人間存在の逆転劇が仕組まれていたはずである。しかしここで急いでつけ加えなければならないことがある。それは個に徹するということが、いたずらに個を主張することではなく、むしろ自己の有限性をも引き受けることだということである。それは究極的には、おのれを捨てること、おのれに死ぬことと同義ではないのか。これこそまさにスペイン神秘主義の要諦である。」

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