【序章】ゴヤ「砂に埋もれる犬」


ゴヤ「砂に埋もれる犬」

 
 私の好きな一枚の絵というふうにある特定の絵を選び出すことなどとてもできない。これはなにも絵に限らず、小説作品であっても、また音楽作品であっても事情は同じだ。だからだれだれの絵は素晴らしいとか、だれだれの小説は傑作だ、というような評言を耳にするとき、私の中で何か波立ってくるものがある。自分は人生の饗宴に招かれていないのではないか、という寂しいような、妬ましいような感情である。
 私の中には、この世のものは全て過程のものである、という牢固たる確信めいたものがあって、何かを完結したものとして提示されると、それは嘘だという声がどこからともなく聞こえてくる。芸術作品とて未完のものにすぎないではないか。だから画家なり小説家なりが、最後の一筆をキャンバスに加えるとき、あるいは最後の文章にピリオドを打つとき、そこには大いなる逡巡、頭の中を吹き抜けてゆく突風のような無念さがあってしかるべきと頑固に信じている。
 したがって、完璧な構成と自信ありげな筆遣いを誇っているような絵にはあまり魅力を感じない。 むしろ中途半端に投げ出されているような絵、画家が何を描こうとしているのか分からぬような作品に親近感を覚えてきた。その意味で、ここに取り上げたゴヤの「砂に埋もれる犬」は、比較的に好きな絵の一つである。といって部屋の中にその複製を掛けているわけでもないし、ときおり画集を開いて見るというほどの関係にもない。頭の片隅に染みのようにこびりついている気になる何かであるに過ぎない。砂だか、あるいは荒壁だか分からぬような背景、迫り来る死の恐怖に慄いているのか、それとも生の無意味さにじっと耐えているのか、頭部だけの犬の姿が哀れである。
 聴覚を失った七〇歳代半ばのゴヤが、世間から隔絶された「聾の家」の二階の漆喰壁に描いたこの絵は、しかしそうした一切の意味付けと感情移入を峻拒しているようにも思われる。理不尽な生の気紛れに抗い、絶望の中で自由と生を求める人間の姿をそこに読み取っても間違いではなかろうが、それにしては圧倒的な砂の容積。その砂がやがてそうした一切の「意味付け」を徐々に浸食してくるはずだ。

(『青銅時代』第三十一号、一九八九年、「青銅ギャラリー」)