思索の旅74―ウナムーノ巡礼(スペイン)
執筆予定の「ウナムーノ評伝」の資料集めのため、今年の四月初めスペインを訪れた。スペインの四月は一年中でもっとも快適であるといわれている。たしかに花々は咲き乱れ、新緑が目にまぶしいくらいで、年々その汚染度を増してきているとはいえ。東京の空に比べれば、それこそ雲泥の差の明るく澄みきった青空の下のスペインだった。
ちょうどポルトガルの政変、フランスの大統領選挙と重なった時期だったので、スペインの政治を動かしているお偉方たちにとってはいささか憂鬱な春だったろうが、往来を歩き広場に集まる市民たちの顔は、相変わらず屈託がない。外から考えるスペインの政情は、波乱含み反動政治のそれであっても、内から眺めたそれは意外なほど明るく透明である。
ここでしかれている政治体制をそっくり日本に移し変えたら、それこそ陰湿かつ陰険な状況が現出することはまちがいないだろう。だがスペインでは、政治が市民生活の末端におりてくるまでに、なにかが大きく変質している。そして市民たちの政治批判は、こちらがうろたえるほどあけっぴろげで辛辣である。しかしそうした批判精神がいまひとつ現実的な力を持ちえないのは、まさにその屈託のなさのせいかもしれない。
ともあれ今回の旅の目的を、私は禁欲的なまでにウナムーノの足跡を追うことに限定した。まず彼が生涯の大部分を過ごしたサラマンカ。ウナムーノが「高い塔の林」と歌ったように、街中いたるところに空に向かって塔が林立している。建物につかわれている石は、この地方の特産ということだが。これは切り出すときは柔らかく、年月とともに堅さを増し、風雪にさらされるほどに独特な色を帯びてくるという。
いまスペインは夏時間だから、日が沈むのは夕方の八時半ごろ、そしてそのころサラマンカの街全体が文字通り黄金色に染めあげられる。市民は広場(プラサ)に、バール(バー)に集まり、いっときのおしゃべりを楽しむ。
作品からうかがえるウナムーノは孤独を愛する人、風変わりで、周囲に容易にとけこめない偏屈な人間という感じであるが、今年八二歳になる長男のフェルナンド氏や娘のフェリーサ夫人に会って話を聞いてみると、彼も一日のかなりの時間を “寄り合い(テルトゥーリア)” に費やしていたらしい。
光と影のコントラストは、また饒舌と寡黙のコントラストでもあるのだ。スペイン人の話好きは、われわれ日本人とはスケールが違う。おしゃべりに注ぐ彼らのエネルギーは莫大なものである。しかしそのことばの奔流のあとに訪れる沈黙の深さはどうだろう。とすると、ことばはこの深い沈黙に十分匹敵するものでなければならない。
あるいは沈黙にすきを与えないだけのスピードと自信と体裁を備えていなければならない。大学教授の講義から、往来を親に手を引かれて歩く幼児まで、およそ言いよどむ、口ごもることはまれである。われわれはそこに一種のそらぞらしさと驕慢さを認めるかもしれないが、だからといって彼らを責めることはできまい。沈黙のあの不気味な深さの前で、人はことばをもって己を鎧わなければならないからだ。沈黙と孤独のおそろしさは、たとえばふとまぎれこんだ路地裏の、奥まった部屋の内部から、鉄格子ごしに外をうかがう老婆の顔に浮かんでいる。
ウナムーノの足跡をたどって、さらに彼の生まれ故郷ビルバオ、そして彼が五年間、亡命生活を送ったスペイン、フランス国境の町エンダヤを訪れてみた。エンダヤからビダソア川をはさんで眺めたスペインは、雨模様のためか、二日間の滞在中一度も晴ればれした顔を見せてくれなかった。約五年のあいだ、目と鼻の先に見えながら近づくことのできないスペイン、独裁政権下の祖国スペインを前にして、ウナムーノは何を考え、何を祈ったのか。
皮肉なことに、ウナムーノの作品は、禁書を解かれてからは以前ほど読まれなくなったそうだ。しかし彼が孤独と苦悩と懐疑のなかで執拗に追求した問題は、いまでもまったく未解決のまま残されているばかりか、より一層その重大性を増してきている。
雨にけむる対岸のハイスキベル山、そのふもとのフエンテラビーアの町を眺めながら、いつしか私は理由のわからぬもどかしさといらだたしさにとらえられ始めていた。
『朝日ジャーナル』1974年6月14日号