八月二十九日(土)うす曇り
「一方小川国夫はどうでしょう。彼は教会からどう思われているかなど、いっさい気にしていなかったと思います。ある日、彼のそうした姿勢を考えていた時、唐突に<小川教>という言葉が浮かびました。彼はキリスト教というものに、実に独特な関わり方をしたと思います。つまり彼の<生きる>にとって有用であるかぎりのものを受け入れるが、それ以外のことにほとんど関心を示さなかったのではないかと思います。生きること、それは彼にとっては焦眉の課題であり、常に自分に対する試みの笞(しもと、むち)であり続けました。病弱の故でしょうか、それとも生来の禁欲的志向の故でしょうか。私が彼と初めて出合ったころに出た短編集の題名『生のさ中に』はその意味でも象徴的だと思います」。
などと書いたのは、編集長との約束の期日が二日後に迫ってきたからである。つまりことここに至っては、「病室から」の場所を借りてでも最後の仕上げに入らなければならない、などと殊勝にも考えたのである。
「その彼が書こうとした文学とは何かと考えるとき、私には彼の一つの短編、というより掌編「物と心」にその原型(プロトタイプ)があるのではないかと思うのです」。
そこで午後の帰宅の際、「小川国夫全集2」を病室に持ち帰ったのだが、その月報を見るとはなしに見ていて、そこに再び懐かしい名前を見つけた。作家の三枝和子さんである。再び、と言ったわけは、昨日も急に彼女と夫の森川達也さんのことを思い出し、どうしておられるだろう、とグーグルを検索して、お二人ともすでに鬼籍に入られたことを初めて知ったからである。三枝さんの方が2003年、そして森川さんが2006年に亡くなられていたのだ。
といってお二人と特に親しくさせていただいたわけではない。初めてお会いしたのは、中野にあったミホさんの伯父さんのお宅においてである。何年ころだろう。私がまだ上石神井の神学院にいたころだから1965年ころであったろうか。季節はいつだったか、森川氏の『島尾敏雄論』の奥付をみれば分かるはず。なぜなら上梓されたばかりの自著を持って、そのとき夫婦で(マヤさんもいたと思う)その家に泊まっていた島尾敏雄に献呈のため訪ねてこられたからである。
だから当時は評論家森川達也のことだけで、奥さんの三枝さんが小説を書いておられたとは知らなかった。森川さんは確か京大の哲学科を出られ、実家の寺を継がれていた。だから本職は僧侶であったろうか。その後まもなく発表された『埴谷雄高論』もそうだが、哲学的思考の跡の顕著な評論を書かれた。
一度お二人で神学院を訪ねてこられたことがある。なにか御用があったのかどうかは覚えていない。神学生(正確にはその前の段階の哲学生だったが)なのに文学にはまりかけていた若者を励まそうといらしてくださったのかも知れない。事実、書けなくて困っているという私の悩みに、三枝さんが親切に助言してくださったはずだ。ところがその内容は、書けない時は書かなくてもいいだったか、そのとき書けるものをともかく書くことだったか。いや、いま急に思い出したのは、前の方の忠告は小川さんからもいただいたということである。
その後お二人とも会うことも連絡し合うこともなく月日が過ぎ去ったが、一度でもお宅というかお寺(関西のどこであったか)をお訪ねすればよかったと思う。そして森川さんと島尾敏雄や埴谷雄高について、文学と宗教について、ゆっくり話し合いたかった。残念である。そのうち改めてお二人の著作を読み返してご冥福を祈ることにしよう。
そんなわけで、今日の「病室から」は変則的なものになりました。たぶん明日も『或る聖書』について書くことになるかも知れません、その締めの部分を。
“生きることに有用なものを受け取る”ことは、「受け取る」ことが受身的な行為でなく、能動的な証と思います。それを求めている精神があれば、その場が受容体になり。健全な受容体が感知できないものに、病弱だった故に震えることができた、と。欠落の意識が書くことを指向させるひ弱い一面もまた小川の魅力です。『生のさ中に』『試みの岸』と、本の背表紙が書庫でもいとおしい一角になっている所以です。
当時の北杜夫、安岡章太郎などの小川評にない貞房氏のご意見とキリスト教からの切り口が楽しみです。
弱さゆえの強さでしょうね。論の中に書くかどうかは分かりませんが、私には小川国夫を漢字一字で表現すれば「勁」だと思います。