今頃になってじんわりと悲しみを、いや、より正確には胸にぽっかり開いた空洞を意識している。先月22日帯広の健次郎叔父がとうとう他界したのだ。娘の史子さんが言ったように、あの「病気のように元気な」健次郎叔父。今年の正月には元気に車を運転し、豊頃の史子さんのところまで遊びに来たあと、急に脳梗塞で倒れ、それ以来帯広の病院に入院加療をしていたのだが、それでも7月30日、つまり愛する姉の千代ちゃんと同じ誕生日を、孫やひ孫に囲まれて99歳、すなわち数えでめでたく100歳の誕生日を祝ったそうだ。
戦前、土浦の海軍飛行予科練習生として訓練を受けたあと、博多海軍航空隊に配属され、敗戦まで空を翔けめぐり、グラマン機を数機撃墜した空の英雄だった。復員後は、十勝の湧洞沼で製塩をしたり、帯広に戻ってからはシュークリームなどの菓子製造業…そうだ以前このあたりのことを書いたことがある。2012年9月17日の「お菓子な話」の中である。叔父のことに触れた部分だけを以下にコピーしよう。
「ちなみにこの叔父は、終戦後のドサクサのなかでいろんなことに挑戦した。最初は湧洞沼で製塩、次に糸の立たない納豆(もちろんわざとじゃない)作り、前述の菓子屋さん、そして最後にやった機械(チェーン・ソーなどの)販売業でやっと陽の目を見たらしい。販売業と書いたが、何かの機会に発明賞をもらったこともあって、元パイロットもなかなか頑張ったようだ。愛妻亡きあと一念発起(?)したのか、娘夫婦の家に車で行ける距離にあるマンションに一人住まいをしながら、九十五歳の今も背筋をぴんと伸ばして連日ダンスとパークゴルフで人生を楽しんでいる。一昨年の老人の日、「北海道新聞」にダンスに興じる大きな写真が掲載され、バッパさんの顰蹙を買ったりしている。」
上にも書いたように、この姉弟、誕生日が一緒。もしももう少し頑張って来年の一月二日まで生きていたら、誕生日も命日も、おまけに享年も一緒という珍しい姉弟になったのに。いやいやそれは贅沢というものだろう。ともかくいま感じているのは、ばっぱさんの時もそうだったが、失った悲しみというより、不思議な喪失感と言えばいいのであろうか。
つまりばっぱさんの場合とまったく同じように、死んだ気がしないのだ。今にもあの「明っかるーい」声で、「たーちゃんどうしてる、元気?」と話しかけてくるような気がしてならない。今でも時折思い出すのは、私が上石神井のイエズス会神学院で哲学を学んでいたある暑い夏の日、わざわざ訪ねてくれたときのことである。
おそらくわがモノディアロゴスにばっぱさんに次いで出場回数が多いのではないか。ある時は、かつての少年・青年時代に叩き込まれた叔父の古い皇国史観を柔らかく批判したこともある(※2014年3月27日「叔父への手紙」)。また私自身はその経緯を詳しくは知らないが、晩年、或る新興宗教や右翼に体よく利用されたこともあったようだが、そんなことはすべて忘れて、今はただただ彼の天性の善意と明るさ、そして無償の愛だけを深く心に留め、私の生きている限り、ばっぱさんそして健ちゃんのことは決して忘れないつもりだ。ばっぱさんが常々言っていたように良い意味でも悪い意味でも無上の「極楽トンボ」だった健次郎叔父さん、どうぞ私たちをその「極楽」から常に見守っててください。
しばらくはお花が絶えないでしょうから、まだまだ先のことになりますが、叔父さんの好きな「アンポ柿」を送りますから今年もどうぞ福島の秋を味わってください。ばっぱさんも叔父さんも、いつも私たち夫婦の心の中に生きています。
2012年9月17日「お菓子な話」でエトワールさんのコメントの中で安藤健次郎様の肉声が動画として観れるリンクが貼り付けされています。『空を翔る思い』を久しぶりに観て、特攻隊として飛行機に乗られた時に死を覚悟したら迷いがなくなり気が楽になったと言われ、戦場から帰還されて蕗の薹をご覧になられた時のお心の奥底に、戦争は絶対にしてはいけないという壮絶なご体験からの願い、思いを私は感じました。
ご冥福を心からお祈り申し上げます。
阿部さん、またまた見付けてくれましたね。私自身すっかり忘れていました。叔父の87歳の時の元気な様子が再現され、胸を突かれました。本当にありがとうございます。佐々木