アルファマ追懐

老齢のためか、それとも昨夏いらい、なにかの病気が取り付いてしまったのか、ココアはときおり小便を漏らすようになった。以前、姉猫ミルク(三年前に死んだ)を病院に連れて行ったことがあるが、野良の「おかあちゃん」の子らしく、大パニックになって窓ガラスに体当たりしてでも逃げようとしたことがある。それ以来、この子たちがどんな病気になろうと、家でできるかぎりのことをして最後を迎えさせてやりたいと思うようになった。だからココアが病気なのかどうかさえ知らない。
 そんな折、Mさんがお母さんの術後の回復に奇跡的に効いたからと「ルミンA」という小さな緑色の細胞賦活剤400粒入りを下さった。相当高価な薬である。本当はこの夏に背骨を手術した妻のためにともらったのではあるが、妻はとりあえずは医者に処方された薬で調子がよさそうだったので(今は一切薬は飲んでいない)、アトピー性皮膚炎に悩んでいた私とココアに流用させてもらっている。その甲斐あってか、例年寒さとともに背中や手に発症していた皮膚炎が今年は一切出ないし、ココアはココアで、毎日一錠を細かく粉状に砕いて与えているせいか、一時は危なかったのになんとか持ち直している。相変わらず痩せてはいるが、食欲もある。ただ気管支系統が悪いのか激しく咳き込むときなど、思わず漏らしたりするのだ。八歳だからまた元気になってくれるかも分からない。
 いや私や猫の病状報告をするつもりではなかった。つまりそんなココアの小便の臭いが何かの拍子に鼻をつく汚くみすぼらしいわが居間に、ここ数日、さわやかな川風のような歌声が流れ、一瞬テージョ河の河畔やアルファマの坂道を歩いているような気持になれる、と言いたかったのである。ペソアのおかげでマドレデウスを知り、そしてリーダーのペドロ・アイレス・マガリャンエスに「全てのポルトガル女性の心が入っている」と言わしめたテレーザ・サルゲイロを知ることになった、と喜びをこめて報告したかったのである。
 スペインの音楽(といってそう多くを知らないが)が感情を表に出す、時に驕慢な印象を与えるのに対し、ポルトガルの音楽はどこか物悲しく控えめで、感情が内にこもっているように思われる。
 ポルトガルには二回行ったが、いずれの場合にも上に述べた音楽の印象が風景や人々から(そして国柄自体から)も感じられた。いま繰り返し聞いて飽きないのは、まさに「アルファマ」という曲で、映画『リスボン物語』でも特に印象に残った小気味いい一曲である。CDに付いていた日本語の歌詞があまりにもまずいので、脇のポルトガル語を見ながら次のように書き変えてみたが、まだ良くない。意味など考えないで、テレーザの透明な歌声そのものを味わった方がいいのかも知れない。

      いまわたしは
      過ぎ行く時に沿って
      思い出している
      帰りたい
      あなたのところに帰りたい
      会いたい
      過ぎゆく一日ごとに
      離れていくあなたに
      会いたい
      わたしの愛したあなたの眼
      その眼にやどる魅力を
      わたしはもう見ることができないの
      ついていないわたし
      あなたの愛を引きとめられなかったわたし
      あなたの愛からわたしを引き離したのは
      もしかしてほんの些細なことだったのでは…

アバター画像

佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください