キホーテ尽くし

このところ歯の具合が悪くてどうにも調子が出ない。上の歯はとっくの昔から総入れ歯だが、最近、差し歯で頑張ってきた下の歯も寿命が来たのか、ぐらぐらしてきて、とうとう下の歯も総入れ歯にすることになった。いや正確に言うと、入れ歯を支えるため二本の前歯を残しての作業なのだが……
 差し歯と入れ歯の違いも分からないので、どうも説明がむつかしい。要するにいま治療中のためうまく噛めず、おまけに痛いので、食事はおかゆと柔らかく調理してもらったものを上唇と歯茎と舌で何とか呑み込んでいる。歳をとるということは、そういうものだ(ケセラン・パサラン)。
 そんなこともあってモノディアロゴスも休みがちになっていたが(たしか今までの最長の休み)、体調を崩してるわけでもないのでご安心ください(だれに向かって言ってる?)。
 いや正直に言うと、歯の調子のせいばかりでなく、このところいろんな本を同時に読んだために頭が混乱しているわけだ。最初は通りがかりにたまたま目に入った G. グリーンの『キホーテ神父』をまだ読んでないことに気づき読み始めたのだが、そこに若い友人の 岡村 一 さん(熊本学園大学教授、スペイン中世文学専門)から出版されたばかりの『ドン・キホーテ(前編)』(水声社)が送られてきた。氏が長年にわたって紀要に分載してきたものがとうとう本になった(後編は続いて出るようだ)と、これまでのご苦労を知っているだけに、我がことのように喜んだ。で、これも読み始めたのだが素晴らしい訳文に仕上がっている。会田由訳、そして我が亡き友・牛島信明さんの訳などで読んできたはずなのに、まったく新しいドン・キホーテに出会った感じがして、衝撃を受けている。
 どこかの新訳文庫のキャッチフレーズに「いま、息をしている言葉で」というのがあった。実はその文庫から頼まれてオルテガの『大衆の反逆』を訳していたが、編集者と折り合いが悪く、もっとはっきり言えば原文も読めないのにやたら訳文に手を入れてくることに嫌気がさして、そしてそこに大震災が降ってわいて、それをいいことに関係を断ち切った。その経験から新訳一般に見られる「つるんとした」訳文についてこれまでずいぶん憎まれ口を叩いてきたが、今度の岡村訳を読んで、文字通り「いま息をしている言葉」もいいもんだな、と認識を新たにしているところである。「認識を改め」たわけではない。岡村訳が例外的に成功している、と言いたいだけだ。いずれこの新訳についてきちんと書くつもりだが、今はなぜ頭が混乱してきたか、について説明する。
 岡村訳を読みながら、そういえば昔ウナムーノの『ドン・キホーテとサンチョの生涯』(法政大学出版局版著作集)を訳したわい、そればかりかオルテガの『ドン・キホーテをめぐる思索』(未来社刊)も、いやいや訳書だけでなく『ドン・キホーテの哲学』(講談社現代新書)なんて本も書いたんだっけ、と思い出し(?)、さあそれからが大変。つまり慌ててそれらを読み直そうとしたのはいいが、さらに大江の健ちゃんの『憂い顔の童子』(講談社)までもが目に入り、それら全部を同時に読み進めよう、なんて無茶やったもんだから、頭が混乱してきたわけ。前の四著はともかく、かつての教え子の秋山さんが「絶望的にむつかしい」とぼやいた大江さん(と親しいわけではないが、なぜか彼をさん呼ばわりする)の「絶望的」なまでに錯綜した『憂い顔の童子』ですっかり頭のゼンマイがトチ狂ってしまったのである。
 それでも『キホーテ神父』はどうにか読み切ったが、さてこれからどうしたものか。一冊ずつ読み終えてから次のに取り掛かろうか。
 ともかく頭を整理するためには手仕事がいちばん、と810ページもある大冊・岡村『ドン・キホーテ』(A5版)をビロード(今じゃベルベットと言うらしい)で装丁し直し、世界に一つしかない美本に様変わりさせたりなどして、何とか精神の安定を得ることができた。でも頂いたからいいようなものの、これを大枚一万円で買うとしたらちょっと考えてしまう。しかし私のしたように、これをベルベットで表装するなり背革にするなりして家宝にする手もある。将来、私とは縁を切った例の文庫から分冊再版されたら、若い読者層にも手に入れやすくなるだろう、なんて余計な心配までしている。
 とにかく『ドン・キホーテ』は不朽の、そして不世出の傑作であることを声を大にして叫びたい(なにを今さら)。皆さんもお手元ににあれば、そしてもしなければ何とか手に入れて、ぜひお読みください。確かに新しい世界が見えてきます。

※ 蛇足にしては立野さんに申し訳ないが、今日の氏からのメールで、あの大作家・大西巨人さんも生涯、古本を製本したり装丁し直したりすることに熱心だったそうである。手が動く限りこれからも古本の再生・蘇生術ばかりか、今回のように新本の装丁し直しを続けようと思ってる私には大いに励みとなるニュースでした。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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キホーテ尽くし への1件のコメント

  1. 岡村 一 のコメント:

     過分にお褒めいただき、恐縮いたします。思えば『ドン・キホーテ』に触れた最初は作品自体ではなく、先生の『ドン・キホーテの哲学』でした。とても面白くはあったものの、生来の斜に構える癖のせいで、あまり勉強する人のいない分野である中世を選んだのでした。
     後日、拙訳について別にお書きくださるとのこと。たいへんありがたい一方、とても怖い気がいたします。しかし今後のため、どうか忌憚のないご意見をお願い申します。首を洗ってお待ちしております。

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