先日、虫害を辛うじて免れた本たちの中にもう一冊身元不明のスぺイン語の本が入っていた。『98年世代の秘密』という題の、まるで雨ざらしに遭ったように古びた180ページほどの本である。98年世代というのは、言うまでもなくあのウナムーノやピオ・バロッハ(先日紹介したカロ・バロッハの叔父で、あのヘミングウェイにも影響を与えたと言われる小説家)などを輩出した有名な世代グループである。
せっかく生き延びたのだからと、この本も裏表紙と背を布で表装してやったが、古びてはいてもピンクのスカ-フを首に巻き頭部もやはりピンクのヴェールで覆った美人画の表紙はそのまま残してやった。ところで内容は、と言えばどうもよく分からない。題名から、98年世代の小説家たちの秘密を暴くものかなと、まずは同じ題の冒頭の3ページほどの文章を読むと、要するに98年の世代なんてものは大騒ぎするほどのものではなく、秘密と言えば評判とは裏腹の無害性、つまりつまらなさが本当のところだ、と切り捨てている。
作者のフエンマヨール自身は1889年生まれで、この本が出版されたのは1944年、つまり彼の55歳の時の作品で、彼より年長の世代がやたら評判がいいのを半分妬みながら冷ややかに見ているようだ。全部で32編もある短編というより掌編は当時の生活スケッチであるが、グーグルを見ても、また人名辞典を見ても彼についての記事は一つも見当たらないところから判断すると、どうも三流どころの文筆家か。ただ彼の作品だけは数冊、例えば『グルメの手引き』や内戦時(1936~39年)のエピソードを描いたものが古本としてネット・オークションに出ていた。
それにしてもどこから迷い込んだ本だろう。唯一思い当たるのは、或る年、或る大学で非常勤講師のX先生が離職間際にくださったものではないかということである。しきりに思い出をさぐっていると、彼からはこの本だけでなくスペインのポルノ雑誌を数冊もらったことまで思い出した。当時自由化が進み始めたスペインから持ち帰ったものらしい。日本の同種のものに比べると(と言って読んだことも買ったこともないが)そのものズバリの写真のオンパレードでさすがに処置に困り、枯れ葉(秋だったか)と一緒に庭で燃やした記憶がほんのり残っている。
さてここからろくでもない探索が始まった。つまりスペイン語ではX先生のような老人を緑色の爺さん(viejo verde)というが、なぜ「緑」なのかが気になってきたのだ。こういうときグーグルでもヤフーでも検索すればすぐ答えが出てくるのはなんともありがたい。つまり「緑色の老人、なぜ?」と打ち込めば、こういう答えが出てきた。
verde はラテン語の veridis からきた言葉で、緑色のほかに若々しさ、元気をも意味していた。17世紀のコバルビアスの辞書でもそうなっていた。ところが18世紀以降、そこに否定的で軽蔑的な意味が加わって、今度はそれが主流となってしまった、と。
どうでもいいことだが、先日、残り少ない人生、なにごとも丁寧に(震災後、飯舘村で有名になった「までいに」の意味である)扱うと言った手前、こんなことにまで丁寧に付き合っているわけだが、ここまで来た以上、じゃ日本語でそういう老人をなんと言うか。好色爺(じじい)、狒々(ひひ)おやじなどいろいろあるが、一般的にはスケベ爺だろう。ではなぜスケベと言うのか。これもネットで調べるとこう説明されていた。つまり使われ始めたのは江戸時代、当初はあることに強い興味・関心を示す「好き」が「助」となり、それが人を示す「兵衛」と合成されたのだが、明治時代の終わりごろから好色の意味に限定して使われるようになった。しかし「助兵衛」という実際にも使われていた人名と区別するため、次第に訛って「スケベ」となった。
以上でスペイン語、日本語の「スケベ爺」の語源学終了。もちろん日本だけでなく世界中に「緑色の爺さん」がいるわけだが、しかし日本近代文学で、例えば谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』や『鍵』そして川端康成の『眠れる美女』などその種の主人公を描いたものが名作として名を連ねているっちゅうのは、考えてみればあまり名誉なことじゃないな。実は二つとも読んだこともないし、これから読むつもりもないし、そうした性向を持っている好事家たちが楽しんで読む分にはいいけど、でも名作にリストアップするのはどうかな。
いずれにせよ一種病的な偏倚だろうけど。あっすみません、天国のX先生、先生を非難するつもりは毛頭ありませんよ。でもこの間の松戸市レェ・ティ・ニャット・リンちゃん誘拐殺人事件やら今も海外で時々起こる聖職者の性的暴行事件など、世の中ゆがんだ大人たちの性犯罪が跡を絶たないのは嘆かわしい。
谷崎や川端は作品を書くことでそうした偏倚をうまく昇華したのだろうが、でも現在のネット時代、際限なく流されるいかがわしい画像など…いやいや、官憲が取り締まるべきとは思わない。北朝鮮のように韓流映画を観ただけで下手をすると死刑になったり、では恐ろしい世の中になる。だからといって偏倚老人のそうした作品を名作扱いにするのはどうも…
ろくに考えてもみなかった問題の隘路に踏み込んだようで、この辺でお開き。要するにくだらないものはクダラナイという常識が、つまりそうした世の風潮を笑い飛ばす健全さが…やはり後が続きません、本当にこの辺で退散します。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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佐々木先生、
まず私事から書かせてください。去る三月中旬のことでしたが、退職にあたり「最終講義」なるものを大学でやらせてもらいました。この日は在学生ばかりでなく後輩同僚や先に退職した先輩や卒業生、および一般市民の方たちも多数聴講に見えられました。
「出会いと委託」と題した当日の話のなかで、わたしはアメリカのサミュエル・ウルマンの詩「青春とは、心の若さである」を引用しました。この詩に感銘を受けたと多くの人たちから感想をちょうだいし、後日わざわざメールで同様のコメントを送ってくださった人々も少なくありませんでした。
ところがそのなかに、一人だけ次のように書いてきた人がおりました。
「先生、老いたっていいのではないかと私は思っています。年々マラソンのタイムが落ちてゆき、昨年のことながら卒論作成のあの集中力も今はないなぁ。先生も老いることをおそれず、瘋癲老人日記を書いてください。思いがけず頂いたメールに喜び、よけいなことを書いてしまいました。失礼しました。」
この人は社会人向けの特別試験で入学した六十代半ばの女性ですが、読書家で頑張り屋さんでしたから、わたしの西洋文化史もほとんど欠席することがありませんでした。メールはこれだけでしたし、『瘋癲老人日記』をこの人がどう読んだのかも分かりかねましたから、やり取りは続きませんでした。
もしかすると、この人が言いたかったのは、青春に未練がましく拘泥せずさっさと老境に腹を据えて、『瘋癲老人日記』でも書きなさいということだったのでしょうか。もしそうだとすれば、大谷崎もずいぶんと見くびられたものです。
いずれにせよ、先生の「スケベ考」を拝見したところ、『瘋癲老人日記』ほかの谷崎晩年の小説と川端作品について、「一種病的な偏倚老人の文学」としてたいそう否定的に言及されておられました。「そういう性向を持っている好事家たちが楽しんで読む分にはいいが」名作にリストアップするというのはいかがなものかと先生は疑問を呈しておられます。先生のいだかれる疑問はごもっともですし、ご意見の99パーセントにわたしも賛成です。
しかしながら、タテノも「一種病的な偏倚老人」の同類かとお考えにならぬようあらかじめお願いしたうえで、以下のことをわたしは書かせていただきたいのです。(川端康成については思うところが別にありますし、長くなりすぎますから、勝手ながらここでは割愛します。谷崎潤一郎晩年の作、なかんずく『瘋癲老人日記』について、さきの元学生との若干のいきさつもあり、さらにここ数日のブニュエル談議との連関性もあり、先生にわたしのささやかな意見の一端をお聞きいただければと思っている次第です。)
主人公はフット・フェティシズムを持った老人です。つまり女性の足裏に執着し、踏まれることに快感をおぼえるという被虐的な変態性欲の持ち主です。ブニュエルの『小間使いの日記』に出てくる老人もフット・フェティシズムの持ち主ですが、素足というよりは婦人靴のほうに執着していました。ですから、厳密に言えば両者をいきなり同列に扱うことはできないわけです。わたしもここでの話は女性の足裏に執着する瘋癲老人にかぎらせていただきます。
谷崎の世界にいわゆる「母恋い」が基本的なテーマとしてあることはよく知られているところですが、『瘋癲老人日記』においてはそれがあくまで「足」を媒介に表わされています。老人の夢のなかに、亡き母が素足に吾妻下駄を履いて現われ、それを老人は「予ニコトサラニ素足ヲ見セルタメダッタロウカ」などと思い、頭のなかで息子の嫁の足とあれこれ比較して、嫁の足は柳鰈のように華奢で細長いが、母の足は自分の掌の上に載るくらいに小さく可愛いかったとか、幅広で奈良の三月堂の不空羂索観音の足を思わせるとか、次々に連想をたくましゅうしては人知れず愉悦感にひたるのです。
そしてダンサーをしていた嫁の足をつぶさに見せてもらううち、それが高じてついに妄念と化し、嫁の足型を拓本に取りそれを印刻した墓石の下で、永遠に踏まれたいというとんでもない願望にまで転ずるのです。まさに荒唐なマゾヒズムの様相を呈するわけですが、そのマゾヒズムに谷崎に独特な異常さのみを見ようとすることに、従来わたしは飽き足りないものを感じていました。
と申しますのも、個人的性向であるフット・フェティシズムを、「日本の足」という広い文脈のなかでとらえなおす契機が谷崎文学にはあると思っているからです。
変態老人のフット・フェティシズムという個人的抑圧に閉鎖された回路は、谷崎のたぐいまれな感覚と美意識という開口部に媒介されて、美が共有され得る超個人的な場へと抜け出てゆくことが可能ではないか。すなわち、感覚の開放性ないし対外性との交錯のなかに、われわれの共有を可能にする谷崎美学の「運動」が見えてくるのではないだろうか、というわけです。
そんなふうに積極的に集中的に考えていた時期がわたしにありました。二十代後半から三十代半ばにかけての十数年間がとくにそうでした。したがってそのころ刊行されていた谷崎全集を片っ端から読み漁りました。
そしていよいよ確信を強めたことは、一貫して谷崎が日本の女性の素足の美しさに執着する作家であるということ、そしてほかならぬその執着のパトスのすさまじさのうちに、個人の次元を超えるエネルギーの発露をかいま見ることが可能であるということでした。
『瘋癲老人日記』を足掛かりにして、「日本の足」というものを超個人的にとらえうる視点を打ち出すことができるのではないだろうか。現にその当時書いたエッセイの一節でわたしはこう述べております。
「いかにも谷崎だけの、と言い捨ててしまいたくなるようなグロテスクなマゾヒズムの世界の求心性を、われわれの内部に反転させて、しかもそれをわれわれの隠微な愉悦として閉鎖的に消費してしまわず、われわれの内部に埋もれたままになっている「足」の発掘のための動力に使用することができるならば、「日本の足」の問題に関して、わたしは武智氏や多田氏の打ち出したすぐれた視点を、さらに補完しうるのではないかと考える。」(「日本の足 踏むと踏まれる」より)
武智氏とは武智歌舞伎のあの武智鉄二、多田氏とは京都人文主義グループのあの多田道太郎です。前者に『伝統と断絶』、後者に『しぐさの日本文化』という名著があり、かれらの考察と思索を「足」と舞踊の比較文化論の観点に立って、さらに推し進めようと模索していた時期が若いころのわたしにあったのです。老いたら『瘋癲老人日記』でも書けとは片腹痛い。三十歳前後の若造のころから、すでにわたしは足をめぐって瘋癲老人と格闘していたのです。踏みつ、踏まれつ。
例によっての長文、どうかご寛恕を。
立野拝