ペソア詩の翻訳をめぐって(その一)


ポルトガルの海   フェルナンド・ペソア


( I 氏訳)
   塩からい海よ お前の塩のなんと多くが
   ポルトガルの涙であることか
   我らがお前を渡ったため なんと多くの母親が涙を流し
   なんと多くの子が空しく祈ったことか
   お前を我らのものとするために 海よ
   なんと多くの許嫁がついに花嫁衣裳を着られなかったことか

   それは意味あることであったか なにごとであれ 意味はあるのだ
   もし魂が卑小なものでないかぎり
   ボハドールの岬を越えんと欲するならば
   悲痛もまたのり越えなければならぬ
   神は海に危難と深淵をもうけた
   だが神が大空を映したのもまたこの海だ   

( S 氏訳)
   ああ 塩からい海よ おまえの汐のどれほどが
   ポルトガルの泪であることだろう
   おまえを航海したがために どれほどの母たちが涙し
   どれほどの子がむなしく天に祈ったことか
   どれほどの許嫁が嫁がずにおわったことか
   おまえを我らのものにするために ああ 海よ

   そんな価値があったのだろうか
   魂が卑小でさえなければ どんなものにも価値はある
   ボハドール岬を越えようとする者は
   苦しみをも乗り越えて行かねばならぬ
   神は海に危険と深淵を与えたもうた
   だが その神には 空もまた映える 


平沼孝之氏の評

 1行目「お前の塩」(I)はSでは「塩」が「汐」。原語は「潮」あたり? I訳は「塩」の苦さの意味をかよわせているのでしょうか。2-3行のSの「おまえを航海したため」はセンテンス全体を殺し、詩を痩せさせている感じがします。第2連一行目の「意味」(I) はたぶん辞書では「価値」(S)ですが、日本語では「意味」はその意をふくみますね。また最終2行はシンタクスはS訳かもしれないが、I訳のほうにふくらみがあります。S訳なら、この詩は採らない、というのが私の感性、というか好みです。

それに対する貞房の意見

 貴兄の見解すべてに賛成します。実はいつか A・マチャードの詩を翻訳したいと考えていますが、しかし大先輩の翻訳がすでにあり、それをどう「無視する」か「乗り越える」か難しい決断を迫られそうですね。I氏とS氏の関係は知りませんが、まずそんなことを考えさせられました。
 ともあれ原詩にもっとも近いスペイン語訳を見てみようとアンヘル・クレスポ編訳のアンソロジーを探したのですが、どうもこの詩だけは載ってません。私としてもこの詩がペソアへの適切な入り口と思うのですが。
 貴兄はさらに他の詩についてもコメントされているので、この「モノディアロゴス」の従来の形式からははずれますが、しばらくペソア詩翻訳教室といきますか。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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