玄関先のインターホンからの呼び出し音で眼が覚めた。バッパさんの部屋につけたインターホンでないことは音で区別できるのだが、でも今までこんな時間に鳴ったことはない。受話器をとってみると、なにやらモグモグとしゃべるじいさんの声。聞きかえすと、千代先生に会いたいとのこと。言葉のもつれはたぶん障害者だからであろう。階段を降りしなに時計を見るとまだ七時前だ。じいさんたちにとっては決して早い時間じゃないだろうが、私たちにとっては「まだ早い」時間。
バッパさんに来客があることを告げて、またベッドにもぐりこもうとしたら、今度はバッパさんのインターホンからのSOS。つまり先ほど招じ入れたじいさん、金を貸せなどと変なことを言い出したとのこと。いつもは威勢のいいバッパさんも音をあげたようだ。こちらの西田敏行風(つまり恐怖ではなく寝起きのために総毛立った頭髪)のパジャマ姿、そしてドスのきいた低音に恐れをなしたのか、彼は意外と素直に帰り支度を始めた。ちょっと乱暴な応対だったかな、と反省し始めた途端、上がりかまちに腰を下ろしたままケータイで長話を始めた。そうであればもちろん外に出てもらうしかあるまい。
午後になってもはっきりしない天気が続く。実は三日ほど前、F病院から、ウメさんの血圧がだいぶ下がってきたので、急変の可能性ありという連絡が入った。それ以来いつもそのことが頭のどこかにひっかかっていて気が晴れない。そうだこんな時には、いずれウメさんを迎え入れるであろう仏間(最近フローリングにした)の整理でもしようか。しかし古い夜具や、薄汚い提灯などは捨てるにしても、段ボールの中から出てきた百冊あまりの祖父幾太郎の手帳類は、さてどうしたものだろう。大部分は肖像画の「外交」の記録や小金貸しの利息計算らしいが、中に純粋な日記も含まれているようだ。
そんなとき、今度は帯広に住む健次郎叔父から珍しいものが届いた。単身満州に渡った父から、誠一郎叔父(バッパさんの直ぐ下の弟で当時麻布獣医大の学生だったか)宛ての葉書、そして二年後、博多海軍航空隊第三分隊にいた健次郎叔父宛ての便箋三枚の書簡である。先日、名古屋の親戚から送られてきたものと同じく、律儀な書体の、真面目そのものの文面。やっぱ肉筆かな、これがワープロ印字だったらこんなに胸が熱くなることはあるまいに。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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