いずれは明かさなければならない或る理由から、ここ数日の間に、私の意識は中国に大きく向かい始めた。CD二枚付きの『中国語が面白いほど身につく本』などというものまで買ってきた。確かに発音は絶望的なまでに難しい。でもしゃべれるようになるのは無理としても、せめて読めるようにはなりたい、と本気で思い出したのである。五十の手習いという言葉はあるが、六十五の手習いはもしかしてあまりに無謀かな、と思いつつ‥‥。
その流れで数日前、ネットの古本屋さんに中国語版『魯迅全集』全十六巻(人民文学出版社、北京、一九八一年)を注文した。二年ほど前、『モノディアロゴス』の「スペイン語で読む魯迅」に書いた、あの全集がなんと日本の古本屋に全巻そろってあったのだ。元値がいくらだったかは知らないが、箱入り布表紙の立派な本十六冊が一万五千円の安値で売っていたのだ。たとえ一生読めるようにならなくてもいい、今度こそ買わないでおられようか。それが今日の午後届いた。当たり前だが全部漢字である。
ところが「貞房文庫」に登録しようと収録作品名を見ているうちに、現代中国語にいわゆる「簡体字」が使われていることに初めて気が付いた。いや漠然と知ってはいたのだが、魯迅の作品にまで使われているとは思ってもみなかったのである。たとえば第一巻目からして、最初の作品名が土篇に文の一字だが、何のことか。急いで『岩波中国語辞典』を見ると、なんとそれは「墳」のことなのだ。まっ、前途多難なんてものではないが、ゆっくりゆっくり歩いて行こう。
思い起こせば、こうなるにはいくつかの布石があった。まず中国人留学生O. Gさんとの出会いをきっかけとして、自分自身の旧満州体験を振り返ることになったことが、そもそもの発端。しかし現在進行中のその或ることがなければ、中国語を勉強しようなんて気にはならなかったはずだ。スペイン人文主義思想を中心とするスペイン研究が一向に進展していないのに今度は中国か、とあきれられると思うが、でも自分自身や日本のことを知るためには、中国のことを考えないでは無理だと遅まきながら気づいたのである。
そんなこんなで、今改めて魯迅が気になりだしたし、武田泰淳、高橋和巳のことが気になりだした。あまりにも遅すぎる出発だが、やれるところまでやってみようか。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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