むしろ攻勢に出よ!

このところのご無沙汰は、私のことではなく妻・美子が一時期容態が悪化したためであった。これまでもつまらぬことも含めていろいろご報告してきたし、結果的には快方に向かっているので、自分自身の頭の整理のためにも簡略に(そうなるかな?)今日までの経過をご報告する。
 五日前の夜だったか(それさえもう忘れかけている)いつものように歯磨きと口の洗浄をしたとき、美子の口の中に大量の食ベかす(と言ってもエンシュアという栄養剤にとろみをつけたもの)が残っていた。スポンジでは間に合わず歯ブラシでかき出してもかき出してもまだ残っている。ともあれその時は五、六枚のティッシュに取ってなんとかきれいにした。
 翌朝、そうだ、今思い出した、12日の振り替え休日の朝だった、十時からヘルパーさんたちによる入浴の時、血圧が異常に低くなっていて、急いで訪看さんを呼んだ。入浴は中止して、ともかくベッドに寝かせ、安静にした。午後一時からの訪看さんたちのケアの時に、喉から管を入れて食道の残留物を吸い出してもらった。夜になって、その日お休みで仙台に行っていた石原医師が帰る早々駆けつけ、呼吸が楽になるように酸素マスクを装着してくれた。実はその前、訪看さんが仙台にいる石原医師に現状報告をした際、救急入院を勧められたらしいが、私は最後まで自宅で世話してください、とお願いした。石原医師も訪看さんも私のたっての願いを認めてくれた。
 相変らず熱はないが血圧が低く、呼吸も弱々しい。今晩が山ですというようなことを告げられ(実は難聴のためよく聞き取れなかったがそのような意味だと頴美に教えてもらった)その夜は椅子の上で時々仮眠をとりながら朝方まで見守った。ところが朝になって少し顔色が良くなり、点滴を受けるようになってからはさらに快方に向かった。当分、朝と晩に訪看さんが交代で点滴をセットし、液が無くなると頴美が上手にその跡を手当てするというルーティンになった。
 こうして一応危機を脱したが、いつまでも点滴を続けるわけにもいかず、明日あたり石原医師と今後のことを相談することになった。おそらく胃婁の手術を病院で受け、あとは自宅で栄養剤の補給をすることになるのではなかろうか。
 数えてみれば今日で一週間、そして点滴をするようになってから六日目の夜を迎えたわけだ。緊張していたせいか、あっという間の一週間だった。でも負けるもんか、という負けじ魂は持続していた。いやむしろ攻勢に出ようとさえした。もっとも私にできることと言えば、この間、相変わらず私家本や豆本の印刷・製本が主だったが、しかし二日目、前から約束していた客人を迎えることにも躊躇しなかった。客人とは大阪で現在研修中の、バルセローナ大の院生マリオ・マロ君だ。彼はいま原発事故後の民間の復興状況を論文にまとめているそうだ。
 彼の来る前夜、あることを急に思いついてさっそく実行に移した。それは先ずスペイン語版作品集の原稿をB5の紙に印刷し、それを布表紙の美本に作り上げることから始めたが、最終的な狙いは、滞ったままのスペインでの出版を推進するための奇策を一歩進めることだった。つまりこういう逆境に意気阻喪するのではなく、これまで延ばしのばししてきたことをまさに今、その一歩を進める。つまり以前ロブレードさんに勧められた gancho すなわち出版社に売り込むため、ひいては将来の読者を惹きつけるための釣り針を考え付いたのだ。そう、例の「焼き場に立つ少年」の写真を麗々しく(?)表紙にし、そして表紙裏に本年正月のローマ教皇のメッセージにそのまま使われた私のスペイン語キャプションと、「それが一字一句そのまま使われた謎」を載せること、それである。自分でも少しえげつない戦法とは思うが、なにこの逆境を乗り越えるため、それで美子の回復への切っ掛けになるなら、ローマ教皇も許してくださるであろうし、終戦時、ほぼ私と同じ年ごろだったあの焼き場の少年も目をつぶってくれるだろう、と踏んだのである。
 翌日、予定通り訪ねてきたマリオ君はさすがにとんでもないときにきてしまったな、と恐縮したが、いや私にとってこの状況からの気分転換にもなるからぜひ一緒に話をしようと引っ張り込んだ。そして前の晩に作り上げた大型の美本を献呈し、私の奇策をも白状した。すると彼は案の定、感激してくれ(?)、この本は私の宝物にします、そしてこの作品集の解説も四月に論文を書き上げてから書きたい、との申し出てくれたのである。奇策第一段階成功!
 その後、ロブレードさんもこの秘策に大賛成、そして唯一交流を続けてくれていた Verbum という出版社の編集者にもそのガンチョを紹介してもう一度出版のことを考えてください、と連絡した。もしかするとこの奇策が効を奏して、少し可能性が出てくるかも知れない。カタルーニャ問題で出鼻をくじかれたところもあったが、もしかすると…
 これらすべては、作品集の著者まえがきの最後に書いたことを目に見える形で実現するためである(ちょっと格好つけ過ぎかな)。

 「この作品集の最後を飾るのは朝日新聞の Withnews に浜田記者が書いた記事『南相馬に住む或る夫婦の物語』である。なぜなら兎にも角にも私の全生涯は妻・美子あってのもの、彼女無しでは私の一生などほとんど意味をなさないからである」。

※ 先日マリオ君に進呈したのはB5判の大きな私家本だったが、そのあと工夫してA5判の布表紙の袋とじ本を作った。もちろん表紙を飾るのは「焼き場に立つ少年」である。これを写真に撮ってロブレードさんなど関係諸氏に電送した。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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むしろ攻勢に出よ! への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     文章を拝読して、美子奥様のことを知り大事に至らなくて本当に良かったと思います。おそらく、美子奥様の嚥下障害のため食べたものが気管支に入ってしまったんでしょう。点滴はIVH(静脈内高カロリー輸液)だと思います。嚥下障害が一時的なものでしたら胃瘻は必要ないんですが、今後もそういう状態が続くようであれば、鼻の穴から管を胃まで直接入れる栄養のとり方もありますが、やはり、胃瘻にすることが賢明な選択だと思います。私の母は胃瘻なので、先生のお話は良くわかります。胃瘻は半年に一度、部分的な器具を取り換えるだけですし、最近の胃瘻に使う栄養液も充実してますから体重も安定した形で維持できます。美子奥様が一日も早くお元気になられることを祈っています。

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