くたばれ、データ神!

以下に述べることは、もしかすると病院慣れ、あるいは通院慣れしている人には当たり前、何をいまさら、と笑われることかも知れない。
 二週間あるいはもっと前からだったか、最初は腹回り、背中、次いで足、最後は頭部へ湿疹が広がり、クリニックから処方された飲み薬や軟膏でも治らず、ついに紹介状をもらって総合病院の皮膚科で診察してもらうことになった。しかし寝たきりの美子を置いて長時間外出することはできない。弱った、どうしよう?
 その病院の皮膚科は毎週金曜だけの診察しかなく、そのため大勢の患者さんが押しかけているようだ。金曜はちょうど午前中にヘルパーさんが来て美子のお風呂、昼過ぎには訪看さんが来てケアの日で、出かけるとしたらその後しかない。おまけにその日は三時から歯科医院の予約が入っている。皮膚科が予約制だったらいいのだが、そうではない、さてどうしよう?
 ともかく電話で聞いてみることにした。
「クリニックからの紹介状を持って今日の午後診察していただきたいのですが、寝たきりの家内を置いていくので、例えば今から2時間後に診察などということは可能ですか?」
「いいえ、皆さん順番を待っておられるので」
「いやいや、割り込もうというのではありません。順番の最後あたりに診察してもらえればありがたいのですが…」
 電話の向こう側のセニョリータは「でも皆さん順番待ちしているので」の一点張り。埒が明かないので、クリニックに電話して、先生に何とか相手側の先生に連絡してもらえないだろうか、と頼んでみたが、予想通りそれはできません、とのつれない返事。
 いやこれ以上実況放送並みに逐一経過を報告するつもりはない。歯科医の診察後、その病院に行き、何とか事態を進展させようとして応対に出た職員に先ほど電話に出てくれた職員に会いたいのだが、と言ってもいま席を外してますとの冷たい返事。しかし最後に応対してくれた事務局員(というのであろうか)の次の一言で一気に事態が動いたのだ。
「それではこうしたらいかがでしょう、とりあえず受付を済ませ、そうですね今からだと五時頃、いまお渡しする番号札をもっていらしてみては? 少し待つことになりますが」
「いえいえそれは当然覚悟してます。ぜひそうしてください」
待っていたのはその答えなのだ。つまり「とりあえず受付を済ませ、渡された番号札(ここで初めて番号札の存在を知った)を持って、適当な時間を見計らって、再度来院すること」
 初めからそう言ってもらえれば、こんなに事態が紛糾しなかったはず。もちろん私もそういう方向に話を進めればよかったのかも知れない。しかし病院慣れしてない私としては馬鹿正直に正面突破を試みるしかなかったのだ。
 ここで言わせてもらえれば、学校にしろ病院にしろ、どこか内向きになっていて、外部の人に対する思いやり、親切、つまり忖度(こういうときにこそ使う言葉だ)が少ないのではないか。一つの例を挙げれば、例えば他医院への紹介状には、「…先生、御侍史」と書いてある。実は80年近く生きてきてこの「御侍史(おんじし、あるいはごじしと読む)」という言葉に初めてお目にかかった。これはドクターが手紙を書くとき、相手の医師の宛名を「〇〇先生御侍史」「〇〇先生御机下」とする医療業界にだけ残っている独特の慣例で、意味は秘書やお付きの人のこと。 つまり「先生に直接手紙を出すのは 失礼なので、お付きの人が開けてくださいね」という意味らしい。いうなれば寿司屋さんやヤクザ屋さんの場合と同じ業界用語・隠語である。
 先日も或る不動産屋さんとの連絡で、相手方の事務員が司法書士先生、とやたら「先生」を付けることに対して、すまんが司法書士といえどもいわばあなた方の仕事仲間、それなのに外部の客への文書に「先生」の連呼はおかしい、と文句を付けたことがある。
 つまり外部の者に対してはすこぶる冷淡というか不親切なのに比べて、内部の者、とりわけ業界同士の関係がすこぶる丁寧というか互いに謙譲の美徳発散というわけである。その丁寧さ、親切さをもうすこし外部の者にも振り向けてもらえんだろうか、というのが正直な感想である。
 この点、もしかすると近ごろ民間より公的機関の方が進んでいるかもしれない。というのは、先日、印鑑証明を貰おうと市役所の窓口付近でうろうろしていると、一人の女性職員が近づいてきて「何をご所望でしょうか、あゝ印鑑証明でしたら、ここにあるこの用紙にこことこことここに必要事項を記入して、何番の窓口に行ってください。書類ができましたら番号でお呼びします」と即座に指示してくれた。以前はそんなサービスなどなかったのに、ごく最近大きく変わったようだ。書類への記入などに慣れていない市民にとっては実に頼もしくありがたいサービスである。
 つまり今回のことに話を戻すと、外部からの問い合わせに即座に適切かつ親切なアドバイスをしてくれる受付さんがいてほしいということだ。なんなら市役所並みに、入り口付近で迷っている人の案内のためだけの専任の職員がいてもいいはずだ。
 さてその日、言われた通りに五時近くに病院に戻り、63番という番号札を受付に見せると、この廊下の一番先にある皮膚科の前でお待ちください、と言われた。前客(?)が五人ほどいて結局は診察完了まで小一時間かかったが、担当医は患部を見て即座に頭皮用のローション、体全体に塗る軟膏を処方してくれた。
 午後いっぱいかかった病院での奮闘もこれでめでたく完了。ネットで調べるまでもなく、現代人の皮膚病は食物その他の影響でおそろしく複雑化していて、即効薬はなさそうだ。たぶん今回の薬にも劇的な効果など求めず、根気よく、そしてストレスをできるだけ感じないように(これが難しい)付き合っていくことになりそうだ。
 ついでに憎まれ口をもう一つ。今日の午後届いた「県民健康調査」(福島県・県立医科大学発行)という10ページ近くの文書について一言苦言を呈したい。震災後、毎年のように送られてくるこの種の調査に応じたことはない。その無意味さに毎回腹立たしい思いをさせられるからだ。震災直後の調査では、あなたは事故があったときどうしましたか、どこに避難しましたか、その時の手段は…こうして忌まわしい過去のことについて根掘り葉掘り聞くことは、特に老人にとっては苦痛を強いられること以外の何物でもない。一体そんなことを調べ、そして統計にして何のため、将来の同種の事故に備えるため? ザケンジャナイ!、そんなことのために時間と金を使って統計表を作るなら、こんな事故がもう絶対に起こらぬよう、日本全体の廃炉を考えた方がずっと世のため国のため、そして国民のためになるとは思わないのですか。
 今回の健康調査にはこんなふざけた質問まである。
最近一か月の食事についての設問で、「人と比較して食べる速度が速いほうですか。」
過去30日の間に、「どのくらいの頻度で絶望的だと感じましたか。」「どのくらいの頻度で自分は価値のない人間だと感じましたか。」
 おいおい、ふざけるんじゃない! こんなことを聞いて、統計して、それでどうするの?
 現在の日本の学校も同じようなことをやってる。学力テストしかり、成績管理しかり。すべてはデータ神のため。(先日、震災のため学力テストの成績が悪かった生徒・児童の今夏の休みを五日間短縮するという愚かな(ここで初めて言う)決定をした東松島市の教育委員長あての意見書(めいたブログ)には、予想通り何の返事も来ない。)
 そんなつまらぬことに精を出すより、例えば先ほどの病院の例のように、組織や同業者ではなく、患者一人ひとりの方を向いてくださいな。データ神ではなく、ウナムーノさんが言うように肉と骨を備えた具体的な人間を大事にしてくださいな。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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くたばれ、データ神! への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     今年は北陸で積雪の量が例年より多いようなニュースをよく耳にしますが、自然に対して人間は全く無力なんだと改めて痛感しています。先生の文章を拝読して、考えてみると人間の体も確かに自然の一部なわけですから人間の都合で病気を防ぐことはできません。ある程度の予防は日常生活の改善で可能なんでしょうが、加齢による免疫力低下など病気をなくすことは不可能です。そうした自然の一部である肉体を生涯背負って生きるのが人間だということを忘れて、データ情報だけですべて割り切ったシステムを作ってしまったのが現代社会なんでしょう。先生が「具体的な人間」と最後で言われていますが、論理の世界は、記号や数字の羅列のように抽象化されたものでは成立しますが、その記号を個々の具体的な人間に当てはめたらおかしなことになるのは当然です。人間は個別的なものであり、持って生まれた素質、能力、体質、生活環境もそれぞれ違うわけです。やはり、問題を具体的に細分化して、面倒でも一つ一つ具体的に対応することが道理に合ったものだと思います。

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