とうとう『二十歳の周囲』を最後まで読んでしまった。そして思ったのは、今回の島尾敏雄の草稿をぜひ眞鍋さんに解説してもらいたかったということ、いや解説が厄介なら、草稿に触発されての回顧談を自由に口述してもらいたかったことである。
たとえば島尾敏雄は日記の中で、矢山哲治の「公明正大なずるさ」を語っているが、これなども眞鍋さんなら的確な解説をするに違いない。つまり島尾敏雄には「公明正大ならぬずるさ」があったのかも知れない、などと。なぜなら以前、眞鍋さんからそれに関する話を聞いたことがあるからだ。つまり下宿の自分の机の上に、読んだら動揺するようなことを書いた紙片なりをさりげなく置いておき、それを読む下宿の娘さん(あるいは女中さん?)の反応を楽しむなどのこと。
いずれも青年期特有の濃密な交友関係の中のエピソードであるが、もしかするとそこには東北人と九州人の気質の違いのようなものが微妙に反映しているのかも知れない。そういえば、島尾敏雄から昔もらった手紙に次のような言葉があった。
「長いあいだ九州に住み(長崎や福岡、佐世保、奄美)私は九州のもつ日本的要素にいつもぶつかり、そして東北的な気質というものを対蹠的に思い浮かべている情況です」(1964年10月22日の手紙)。
私も昔、初台の学生寮で九州人との付き合いがあったが、関東人や東北人との気質と言ったらいいのか気性といったらいいのか、ともかくどこか異質なものを感じたことはある。長崎出身の学生も数人いたが、そのうちの一人は今テレビでオーラの泉とか何とかで有名な丸山(三輪)明宏の弟だった。兄貴とは違って(?)おとなしい男であったが、それでも彼らの会話にドス(長崎弁でなんと言ったか、つい最近まで覚えていたのだが)の話が混じっていたりして、喧嘩でも風土的相違があるのかな、などと感じたことを思い出す(といって、私の高校時代、秋祭りにすれ違っただけで他校の生徒と喧嘩になって、ナイフで相手を傷つけたか殺したかした事件《さてどっちだったか?》があったので、喧嘩に関しては別に九州と東北の差は無いのかも知れないが)。
ところで、いま不意に思い出したのは、その眞鍋さんが昭和15年に島尾敏雄に誘われて相馬、仙台へと旅をした際の写真を眞鍋さん宅で見たことである。旧小高町岡田(?)の線路の上を歩く眞鍋・島尾の写真である。二人ではなく眞鍋さんだけの写真だったか。いつか機会があれば、ぜひコピーさせてもらいたいものだ。
ところで今晩もまた「遺稿集」に話しを戻せなかった。明日また続けよう。