「君がなぜ私にこだわるのか教えてもらおう」
「ぼくはずっと君を分ろうとしてきた。でももうウンザリだ、そう言いたかった。皆が君を崇拝するが、ぼくにはもう必要ない」
「私といるのが嫌だったと?」
「まさか。とても大切な存在だったよ。でも苦しかった。心の平和が乱された」
「それこそが文学の使命だと思わないか?安息をかき乱すことが」
これは映画の最後で、主人公がようやく会えた死せる作家と、レストランで食事をしながら語りあう場面でのやりとりである。明らかに相手の作家はペソアと言わなければならない。敬愛する作家などと、こちらでは勝手に思い込んでいたが、タブッキ(映画の主人公がぴったりタブッキと重なるわけではないであろうが)にはタブッキなりの複雑な思いがあったことがこの会話からうかがえる。
それにしてもこの映画の中のリスボンはまたなんと不思議な静寂に包まれていることか。幻想の中での死者との邂逅の場面であるから当然と言えば当然なのだが。『リスボン物語』の時の、あの街の喧騒が嘘のような静けさである。もちろん会話もあり、それなりの物音があるのだが、それらは夢の中でのように、必要なときに、必要な音量でしか聞こえてこない。あとはすべての音を吸い上げるような圧倒的なしじまである。
死者たちの登場の仕方にしても独特である。たとえば、主人公の父親は、主人公よりはるかに若い船乗りとして登場するのだが、主人公の前に突然現れるのではない。いや突然にではあるが何カットか前に、何の脈絡もなく、しかし正式な登場の下準備をするかのように、いわば先回りして画面に現れてくるのだ。夢の中では意識の下に、意識とは別個に、さらに別の意識が折り重なっているのと同じことである。つまり夢を見るのは私ではあるが、登場したり起こったりすることは、その私の自由にはならず、それ独自の流儀で惹起する。
タブッキと同じく、私自身も彼の作品を読むことで、いわく言いがたい不安にかられ、早々に彼を遠ざけたのであるが、岩場に響くセイレーンの歌声のような、彼の発する魅惑的な波動にまたぞろ捕らえられそうだ。