上田氏の消息は、少なくともネット上では確認できなかったが、編集の諏訪三千男さんの消息はつかめた。大変残念なことに2008年に亡くなられていた。1937年生まれとあるから、私よりわずか二歳年上なのに残念なことだ。
『光と風のきずな』のことで何回かお会いしたし、それが一段落ついたあとでも何回か手紙のやり取りがあった。彼が手がけたテレビの「ムツゴロウ」シリーズの苦労話を聞いたか読んだかした記憶がある。つまり出たがり屋のムツゴロウさんを編集でいかに抑えるかについてなど。編集マンとして、彼は第一線で活躍したようだ。1965年のフランキー堺主演の『あんま太平記』から1999年の耳の不自由な女性(忍足亜希子演ずる)を主人公にした『アイ・ラブ・ユー』まで数多くの映画を編集するかたわら、1993年には「日本映画・テレビ編集協会」の第二代目理事長を務めた。
ともかく『光と風のきずな』は、他に撮影の高松重美さんなど優秀なスタッフ陣に支えられて、文部省特選、芸術祭優秀賞・厚生大臣賞、動物愛護映画コンクール優秀賞などを受賞した。映画のエンド・ロールに協力者の一人として自分の名前が出てくるなんて経験は後にも先にもこのときだけである。
そうそう、この映画のおかげで、赤沢さんと一緒に森光子さん司会の「三時のあなた」に出たこともある。放映のすぐあとで、それまで消息が途絶えていた美子の友だちが、たしか北海道の稚内からだったか、電話をかけてきて、テレビの伝達力のすごさに驚いたものである。
さらに余談を二つ。 ナレーターは市原悦子だが、上田さんの話だと最初王貞治を考えていたそうだ。市原悦子でよかったのでは。それから映画の冒頭、空港ロビーで赤沢さんたちを見送りにきた人たちが映っているが、私たち家族の姿はない。実はその日はどしゃ降りで、二子玉川から車を……そうだ先日は羽田と書いたが、そのころはもう成田からだった……飛ばし、着いたときは撮影が一段落したあとだった。ただ飛行機の中、そしてパリからスペインに向かう列車の中でずっと赤沢さんが持っていてくれたのは、美子が贈った花束である。
というわけで、以上『光と風のきずな』を契機に、ここに書き付けなければ永遠に消えていったはずの思い出である。忘れ去られてもいいようなつまらぬ過去の断片ではあるが、でも思い出して、そして書き残してよかった。それだけ自分の過去が豊かになったからである。それにしても、あの上田さん、今ごろどうしているんだろう?
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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