記録と来歴に埋まる家

桐野氏が名瀬に行ったのは今年の7月6日ということだから、発見された未発表原稿のまさに発掘最中だったことになる。鈴木直子さんには悪いけれど、いわゆる書誌学的な解説より、桐野さんの発掘現場報告の方がはるかに面白い。(いつの間にか両者を「さん」呼ばわりしているが、鈴木さんの場合は昨年、浮舟でのシンポジウムでご一緒したから当然だが、桐野さんの場合は、今度の報告を読んで、その確かな人間観察に感心したからである)。
 何がいちばん感心したかというと、ずばり伸三さんについての鋭い観察である。彼の特異な人間性をまるで外科医の臨床報告みたいに、辛らつで、しかも的確な言葉で綴っている。これを読んで、おそらく伸三さん自身、まいったな、と感心しているかも知れない。たとえば桐野さんに拾い上げられた伸三さんの次のような言葉がある。少年時を回顧して、毎日つけていた七冊の絵日記すべてをミホさんに捨てられたことを述べた後の言葉である。

 「そうです。うちの両親は、坊ちゃんと嬢ちゃん同士の結婚ですから、互いに大人じゃなかったんです。間に入った者がどれだけ苦労するかは、間に入った者でなければわかりませんよ。私は母の奴隷でしたから。私の仕事は、母のために四歳の時から朝ご飯を作ることでした。小さくても味噌汁くらいはできますからね。マヤのトイレの始末も全部私がやってました。それと、新聞をスクラップしやすいように、揃えることも。父は日記も必ずつけますし、新聞記事のスクラップもしましたし、写真も趣味だったんです。毎日それをこなすのが好きだったので、自分が手伝っていたんです。私が年代順に整理したのが、仇になって、それから母の検閲と改竄が始まるんですね」

 それに対する桐野さんの反応。「…遠い距離を感じさせる言い方に衝撃を受けた。だが、憎しみが滾(たぎ)っているのでもなく、怒りがあるのでもない。黒い諦念のようなものが底に漂っていて、情けないことに私はたじろぐのだった」。
 桐野さんはそれから加計呂麻島の文学碑に見に行くが、呑の浦の「どことなく不吉さが漂う浜」で、「暑さではなく、浜の不穏さにへこたれて」、「岩の上に腰を下ろした」。特別寄稿「記録と来歴に埋まる家」は唐突にここで終わっている。もちろん呑の浦が不吉なのではなく、名瀬の島尾邸で受けたショックがここまで尾を引いていたわけだ。
 ご苦労さん、と言いたくなる。伸三さんの言葉には、死の棘のトラウマから未だ抜け出せないままの未消化の言葉が目立つが、しかし『死の棘』誕生の情況をあますところなく語ってもいる。
 最近私がはまり込んでいる作業、つまり自分の書いたすべての文章(若いときの手紙を含めて)だけでなく、いつかは恩師や友人たちの来信までをも印字して残そうとする作業は、もしかしてその死の棘の呪縛に自ら罹っている結果かも知れない。
 ところで島尾敏雄が愛飲していたのが、アルメニア産ブランディーのアララットであることを今回初めて知った。さっそくネットで調べたら、いちばん安いのでも(500ml)で4,000円くらいらしい。埴谷さんが愛飲していたのはハンガリア産のトカイワイン、でも彼らの真似をするのはやめて、俺はチョーヤの黒糖梅酒で我慢しよう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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