原発禍の福島、日本のその後について [スペインのテレビ局の取材を受けて](2017年8月)

※以下は、記録映像のやり取りを息子が書き取り、編集したものである。


・政府の行動について先生はどう思われますか。

 表面的には、まあまあ、よくやっているように見えます。でも…何でしょう…誰も、責任を取りません。この事故に関して。それから、責任を取らないだけでなく、現実に原発の仕組み、体制を続けている。むしろ強めています。それだけじゃなくて、輸出までしてます。例えば、トルコなどに。私にとっては、それは恥知らずなことです。


・先生は原発の再稼働について断固反対の立場です。

 原発に対しては、事故の前から、ずっと前から反対してました。原発ができたのは1970年代です。だけど、私はその時、東京から時々休みで帰省するだけでしたが、この町は原発のおかげで経済的に活気づきました。だけども、その時から私は反対でしたし、それから、事故の後に、避難先の青森で死んだ私の母も、初めから大反対でした。だけど、その頃、反対する人はとても少なかった。反対する人は非国民というぐらいに思われました。だけども、原発そのものが、私にとっては、絶対許せないです。つまり、原発の廃棄物を処理する方法を作っていません。まだ、できない。たぶん、永遠にできないでしょう。だから、私は初めから反対でしたし、私は死ぬまで、反対を続けます。 そのために、例えば、私は自分の作った「平和菌の歌(Canción del germen de la paz)」などを豆本にして配り続けています。


・事態を甘受している人々がいるように見受けられます。

 簡単に言うならば、日本人は非常に従順な、法律に対しても非常に従順な人々になりましたが、それは私からすれば、飼い馴らされた、従順な羊のようなものです。だから、本当の不正に対して怒(いか)ることを忘れています。それは私にとっては、とても残念なことです。正しい怒りは大事なことです。だけど、日本人は今、それをすべて忘れています。非常に従順です。震災の後、互いに助け合って、世界の人たちは美談として誉めています。だけど、それは、裏から見れば、私から見れば、単に自分の意志を表明できない人たちが見えています。非常に従順な羊のようになってしまった。飼い馴らされています。

(中略)

 例えば、震災の後、市役所、銀行…日本の今の、現在の悪いところがみんな表面に見えました。つまり、簡単に言えば、誰も責任を取らないのです。責任を問われることを死ぬほど嫌いなんです、今、日本人は。それは、とても悲しいことです。一緒にみんなで何かをやることは、いいことでしょう。だけど、厳しい言い方をすれば、一人一人が自分の責任を取らない「みんな一緒」なのです。だから、日本語でよく政治家も使うのに「一丸となって」という言葉があります。それは良いことでしょう、しかし、別な面では、主体性がないということです。震災の後に、テレビを見ていたら、例えばフィリピンかどこかで台風があって、ある一部は暴徒化して、店を破ったり、壊したりしました。だけど、私からすれば、それは…例えば、私がもしその国の人でしたら、そして家に飢えた、お腹の空いた子供がいたら、店のガラスを割りますよ。子供のために食べ物を盗りますよ。でも、日本人はそれをしません。確かにそれは良いでしょう。良いことだけれども、一方では、とても悲しいことです。
 例えば、甲状腺のがんについて、非常に厳しい検査を子供たちにしています。それで、結果(がんの判明)はほとんど出ません。それを、ある人からすれば、医者たちが政府からお金をもらって、嘘を言っているんだと主張します。だけど、私からすれば、そこまで疑う必要はないと思います。検査というのは、今まで誰もそんなに厳しい検査をしたことがなかったようなものです。専門的に言えば過剰検査、過剰診断というのでしょうか。それで、ふつうは自然に治るものまでも、細かく調べるわけです。心配するのは、特に小さな子供さんを持っている親で、心配するのは自然なことです。だけども、私が心配しているのは、心配と不安というものが渦のようにエスカレート、どんどんどんどん強くなっていくことです。それは、放射能よりも私にとっては怖いことです。心理的なダメージ、PTSD は、この地帯の一番大きな問題でしょう。
 事故の後、この南相馬の地域だけでも3日間の間に293人の老人と病人が死にました。新聞で見ました。でも、記者は、どうしてこんなに数が多いのでしょうと書く。だけど、私からすれば明らかなことです。つまり、無理に搬送したり、老人を無理に移したりしたからです。私からすれば、それは犯罪です。
 それは医者としての罪だけじゃなくて、法律的にも罪です。だけど、誰もそのことについて言わないです。誰も責任を取らない。私からすれば、これは明らかに犯罪です。私は別にそのことについて、具体的に誰が責任があるかと問い詰める気は全くありません。だけど、少なくとも、「恥ずかしい」と、「責任」を感じて欲しい。だけど、誰も感じません。「想定外」という言葉が、錦の御旗のように、それを使えば、全部、許されたのです。今もそうです。誰も責任を持たない。それが、私にとっては最大の悲劇です、原発事故の。