VHSからDVDへの変換作業もようやく終盤に入ってきた。DVDに変換してもこの先見ることはあるまい、と思われるものでも、片っ端から変換している。もうめぼしいものは無いだろう、と思っていると、思わぬときにこれはと思う「名画」が出てくるからだ。
今日見つけた『リトル・ブッダ』もそんな掘り出し物の一つ。はじめエディ・マーフィあたりが出てくるどたばた映画の一つかなと思っていた。ところが何気なく作業の後半から見始めて、とうとう最後まで見てしまった。シアトルで活動していたチベット仏教の高僧が死んで、その生まれ変わりとして白羽の矢(?)が当てられた白人坊やとその両親が、いつの間にかその輪廻転生劇に巻き込まれ、果ては、初めから懐疑的だった父親が坊やと一緒にチベット仏教の本山まで出かけるという話。
これだけ聞くとなんだか荒唐無稽な筋書きだが、見ているうちに、絵本仕立てで平行して進められるシッタルダの解脱への話と相俟って、なかなか説得的で、かつ為になる(?)映画に仕上がっているのだ。青年ゴータマ・シッダルタに扮しているのが、なんとあの『マトリックス』の(といって私は見ていないが)キアヌ・リーブス君である。先日話に出たグレゴワール・コラン君と同じく、心持釣り眼の彼は、どことなく東洋系の顔立ちをしていて、若き日の釈迦としてまことにはまっている。
為になる、といったわけは、仏教にしろキリスト教にしろ、あるいはイスラムにしろ、まともな筋道で人々に受け入れられた宗教はそれなりの意味があり、人々の「為になる」ということ。それが対立し反目し、果ては排撃し殲滅しようとするのはどこかで大きく道を間違えた証拠で、そのことを清算しない、あるいはできない宗教は絶対に信用ならないこと。
輪廻転生ということも、エネルギー保存の法則、すなわち「物理的・化学的変化において、これに関与する各種のエネルギーの総和が、変化の前後で変わらないという法則」を自己流に当てはめるならじゅうぶん理屈に合っている。つまり生きとし生けるものすべては、有限の生しか持ち合わせていないが、しかしその生を終えても、ちょうど腐植土のように次の生命体の誕生のための滋養となり、総和としていささかの減少も見られないということである。
音楽もなかなか良かったな、と思いならエンドロールを見ていたら、なんと坂本龍一だった。いやそれより、映画としてなかなかのものだったと、監督名を探したら、かつてパゾリーニの助監督を勤め、後に『ラストエンペラー』を監督したベルナルド・ベルトルッチであった。なるほどね。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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