8. 島尾敏雄の中の東北 (1967年)

敏雄さんと一緒に
昭和16年9月、当時九州帝大で東洋史専攻に切り替えたばかりの敏雄さんが熱河まで訪ねてきた。このときのことは彼の『満州日記』(原題「熱河紀行」)に書かれている。

島尾敏雄の中の東北



 作家・島尾敏雄に会ったのは比較的最近のことだが、作家以前(私にとって、という意味で)の彼に出会ったのは、もう二十数年の昔である。と言っても、私自身にその頃の記憶が残っているというわけではない。二十数年前の出会いを記録してくれているのは、やはり例によって一枚の写真である。それは少しピンぼけの、いやに寂しい雰囲気を持つ写真だ。赤レンガの、どこかの官舎らしきものを背景に、私の家族と、その頃はまだ大学生の彼が立っている。風の強い午後らしく、いまにも吹き飛ばされそうな心細い格好で、よりそって立っている。昭和十六年の夏、旧満州熱河省灤平(ランペイ)というところである。その頃私は数えで三歳ちょっとであり、もちろんその時のことなど覚えていない。年譜によれば、この時彼は妹の雅江さんと一緒の満州旅行であり、その年の春、それまで席を置いていた九大経済科を退学し、改めて入学試験を受け直して文科に入り、東洋史を専攻しはじめたばかりなのだから、あるいはこの満州旅行も研修旅行のつもりだったのかも知れない。しかしその時のことを回顧して、「あの学生の時のひと夏を、私は満州旅行に充てたことがあった。熱河省あたりまで足をのばしたのに、私は一切の史蹟に背を向けて帰って来た。九月になって重松先生は、めずらしくそのことに強く不満の言葉をもらされた」と書いているから、研修という目的は果たさずじまいだったらしい。いかにも彼らしい。
 次に会ったのは、福島県相馬郡小高町の、彼にとっては伯父、私にとっては大伯父の家においてである。それは昭和二十六年ごろのことだから、彼はまだ神戸に住んでいた。この時には私も小学校の五年生だったから少しは記憶がある。でもそれはおかしな記憶だ。つまり、風呂から上ってきた彼の姿しか残っていないし、それも腰から下の姿しか覚えていないのだ。股引につぎがあたっていたことだけが不思議と鮮明にまぶたに残っている。こんなことを書くとミホさんにしかられそうだが、子供心にも、なんとなく親しみを覚えるきっかけになったことだから書いてみた。
 彼は大正六年横浜に生まれ、八歳の時以後は神戸に住んでいるが、休みごとに両親の里である相馬を訪れている。幼年時代を題材にしたものの中でも、たとえば『いなかぶり』などは、この相馬が舞台であり、彼と同じような体験をした私にとって、ことに好きな作品となっている。
 つまり相馬の血が体内に色濃く流れているにもかかわらず、常に相馬は自分にとって他者であり、理解の行きとどかぬところがどうしても残ってしまう。その柔かそうな受容の顔つきの下に、異質なものをかたくなに拒否し、他所者を遠まわしに試みてくる冷酷な顔が潜んでいる。
 昨年の夏、私は三週間ほど奄美大島の彼の家にごやっかいになったが、その時たびたび相馬なまりで話し合うことがあった。そして本当に感心したのは、私の方が相馬での生活が長いにもかかわらず、彼の方が数段と相馬弁がうまいということだ。あのふわっとした濃厚な親密さを持つズーズー弁、その特徴を見事にとらえてみせる。彼の作品を読んでいつも驚くのは、その会話の部分の生き生きしていることだが、なるほど、彼は耳が鋭いのである。
 ある時、なんの拍子だったか忘れたが、島尾敏雄はやはり東北人だなあと確信めいた感じを持ったことがある。理由を述べることはむずかしいが、人に対する時の奇妙なはじらい、口下手に見えながら、ある時突然雄弁になること、脇の下がむずがゆくなってくるような重いユーモアなどなど、彼もまた東北人の性格を数多く持っているようだ。彼の作品の持つ不思議な親和力には、東北人としての資質が大きく与っているような気がする。奥野健男氏は、友人との心理葛藤の系列に入る作品に触れて、「人との相対的な心理関係をあまり気にしすぎている」と書いたが、島尾敏雄にとって人問同士の相克は、どうしても避けて通ることのできない業のようなものであったに違いない。
  彼の従兄にあたる「イズローチャン」(誠一郎のこと、『幼年期』に出てくる)は、このようなべタついた相馬の風土を嫌悪して、「相馬は日本の癌だ」と言いながら二年前北海道で亡くなってしまったが、少年時代、ただ休みの間だけ、いわば客扱いでこの相馬に住んだ島尾敏雄は、そう言い切るほどには相馬に傷つかなかったのかも知れない。横浜、神戸、長崎、福岡、東京と各地を転々とし、今、奄美に腰をおちつけたかに見える彼にとって、どれにもっとも愛着を感じ、また影響を受けているか分らぬが、父祖の地・相馬のあの濃密な血が案外彼の文学的発想の根源を流れているようだ。

(イエズス会神学生)


『筑摩現代文学大系』第六十二巻月報
                一九六七年六月