井上ひさしの『風景はなみだにゆすれ』(「エッセイ集2、中央公論社1979年」の題名が前から気になっていた。宮沢賢治へのオマージュとして書かれたエッセイらしいから、賢治の詩かなんかの一節かな、と思ったが、そんな言葉があったという記憶がないので、気になっていたのだ。それで書名と同じタイトルのエッセイを見てみたら、それよりさらに気になる記述にぶつかった。冒頭の文章である。
「昭和二十八年七月から昭和三十一年三月まで、すなわち十八歳の夏から二十一歳の春まで、わたしは岩手県の東海岸にある鉄と魚の港釜石市に住んでいた。せっかく入った大学の哲学科の講義がひどく白けたもののように思われ、学校に休学届を提出し、母親が屋台店を出している釜石市に引き揚げてしまったのである」
文庫本のカバー裏などの作者紹介に、彼が上智大学のフランス文学科を出たと間違って書いてるものがあるが、正しくは外国語学部のドイツ語科に入ったが興味が持てず、何年か休学して今度はフランス語(文学ではない)科に入り直して卒業したらしい。ところがこのエッセイによれば哲学科に入ったことになっている。ドイツ語科の学生だったが、哲学科の授業を聴講した、というふうには読めない。それに当時はまだ、いわゆる関連科目として他学科の必修科目などを履修できる制度は無かったはずだ。
私の知っている友人の例を引合いに出せば、地方のカトリック信者の受験生がカトリック系大学になんとか入学するための一種の抜け道として、当面聖職者になる気持ちが無くても、ともかく神父さんの熱心な推薦状があればラ哲、つまりラテン語学習を中心にキリスト教哲学(いわゆるスコラ哲学)を勉強し、その後神学を勉強してカトリックの神父になるコースがあった。もしかすると東北大や東京外語大など軒並み失敗したのを見かねて、光ヶ丘の修道士たちがそのコースを進むよう取り計らったということは大いにありうる。
だけどほんとのことを言うと、そんなことどちらでもいい。実は今日の午後、バッパさんの介護認定のための検診にIクリニックに行った際、携帯車椅子のバッパさんと付き添い(?)の妻を両脇に、薬が出るのを所在なく待合室で待っていた。その時である、まるで天啓のように(それはちと大袈裟だが)ひらめいた想念があったのだ。このところ、私家本を作ったり、このモノディアロゴスのような文章を書いたりしてきたが、今もそうだが死んだ後も、まともに読んでくれる人などほとんどいないと言ってもいい。
自分としては、いいものさえ書いておけば、誰かが読んでくれるだろう、などと能天気に考えていたが、果たしてそうか。毎度ではないが、時に自分でもカチッと確度の高い標的を射止めたと感じるものを書いたとしても先の事情は変わらない。それなのに、いちど世間的に認められた作家や物書きは、ボルテージの低い雑文であってもたくさんの人に読まれ、時に研究の対象にされたりする。これは不公平だ。どうすれば死後も読む人に恵まれるだろう。ソウダ、ジブンモ、ソレヲイワバ光源ノヨウニシテ、他ノスベテノ作品ニモ目配リサレルヨウナ代表作ヲ書カナケレバナラナイ!
それは死後のことであるから、有名になって金を稼ぎたいとか、たくさんの人のうわさにになりたい、というわけではない。たとえわずかな人からでもいい、幾久しく記憶に留めてもらいたいのだ。いままで書いたものだけではそれこそ夢のまた夢に終わる。そうだ代表作を書こう!
【息子追記】他所でいただいた立野正裕先生(明治大学名誉教授)と阿部修義様のお言葉を転載する(2021年3月18日記)。
立野正裕先生
「たとえわずかな人からでもいい、幾久しく記憶に留めてもらいたいのだ。いままで書いたものだけではそれこそ夢のまた夢に終わる。そうだ代表作を書こう!」
深い共感とともに日々銘記したい言葉を、先生はここにも記されました。
阿部修義様
自分をごまかさないで書いた文章に私は魅かれます。そこには日々の徒労も落胆もあるでしょう。読者が繰り返し読みたくなるもの、読者を動かすものはそこにあると私は思います。まさに『モノディアロゴス』はそういう本です。