亡父の遺品は、数通の手紙、ほとんど記述のない手帳、そしてたぶん内地に残していったバイオリン1挺ぐらいのものだが、そのバイオリンも、子供のだれにも音楽的才能がもともとなかったのか、引き継ぎ手がないまま、隣りの寝室で埃をかぶっている。それはともかく、今日急に手紙類が見たくなった。五年前に作った『熱河に翔けた夢 佐々木稔遺稿集』のなかに今まで辛うじて集めた三通の手紙を収録したが、そのうちの一通(はがき)を改めて引用する。私が生まれてすぐ、家族より一足先に満州に渡った直後の葉書である。
①東京市目黒区上目黒2-19 大林寛様方 安藤誠一郎様
満州国熱河省灤平縣公署 佐々木 稔
其の後の御無音をお詫び申上げます。秋晴れの大江戸で御達者で御勉強の御事と存じます。三郎ちゃんも一夫さんもきっと御元気のことと思います。長い旅も承徳の二日に亙る離宮、ラマ廟の見學を最後に漸く終了いたしました。十九日は元気一杯で任地に安着いたしました。何卒御安心下さい。満州の田舎町の風景、「大地」そっくりの様子です。見るもの聞くもの珍らしいものばかり着流しに下駄ばきで大いにカッポしてをります。縣公署は目下移転のためごったがえしの様で、正式の発令は十月一日になる予定です。その上で職掌もはっきり決定する筈です。その上で又ゆっくりお便りする機会に恵まれることと思ひます。皆様にもどうぞ折角御自愛の上御健斗下さい。
先づは簡単に御一報まで。
〇康徳六年(昭和十四年)九月二十三日消印
日付の「康徳」は今では知る人も少ないが、帝政期の満州国の元号で、帝政に移行した1934年3月1日から、国家が崩壊した1945年8月18日まで使用されたものである。またこの元号に関連して、当時の皇帝(愛新覚羅溥儀)を康徳帝と称することがあるそうだ。当初は啓運を予定していたが、関東軍の干渉により康徳に変更されたと言われている。
さて少し縦長の実に几帳面な書体で書かれたこの父の葉書は、それから数年後、夫婦して渡満する義弟(つまりバッパさんの弟)宛てのものだが、注目したのは「大地」という言葉である。もちろん文脈から推して、パール・バックのあの有名な小説である。
貞房文庫にも朱牟田夏雄訳(講談社)の二巻本があるが、父が読んだものではないだろう。ネットで調べてみると、この朱牟田訳以外に新潮社から新居格・中野好夫共訳のものがあり、そしてこの新居格が単独で昭和11年に出したものが一番古いものだということが分かった。新居格(にい・いたる)は聞きなれない名前だが、ころもさっそくネットで調べてみた。
「新居 格(一八八八~一九五一)。「労働文学」「新興文学」等の左翼雑誌に執筆し、文学評論や社会時評、あるいは風俗時評と広範な批評活動を展開した。また、モボやモガという風俗語の作り手と目された事実が示すように、鋭敏な文化感覚の持ち主でもあった。大正十年(一九二〇)に評論集『左傾思潮』を刊行、主な作品に『アナキズム芸術論』(昭5)『街の抛物線』(昭6)等がある。ほかに、パール・バックの『大地』の翻訳(昭10)もある。」
となれば彼の翻訳した『大地』が欲しい。父が渡満前に読んだのは、間違いなく彼の翻訳だからである。まずアマゾンで調べてみた。中野好夫との共訳はあるが、それ以前の単独訳はない。かくなるうえはアマゾンを知る前に長い間お世話になった「日本の古本屋」で調べるしかない。
あった、あった。「大地 三部作・パアル・バック 新居格訳・3冊 重版 函 痛み本です 状態良くありません・昭11・B6・1,500・第一書房」。状態良くないのは一向に気にならない。父が手にしたであろう当時の装丁を鑑賞(?)したのち、必ずや布表紙の特装本に化けるからである。
それにしてもパール・バック女史の『大地』、恥ずかしながら今まで読んだことがないのである。今では彼女の名はほとんど忘れられているが(もしかして私だけ?)、アグネス・スメドレー女史(1892-1950)と共に、近代中国を深く知るためには絶対に欠かせない偉大な先覚者である。
またまた宿題が溜まってきた。いくら時間があっても足りないくらい。これじゃ死ぬ間もありゃしない。