大同学院

今まで父のことはほとんど知らないで来た。もっとバッパさんに聞いておくべきだった。たとえば家族より一足先に満州に渡ったことは知っていたが、叔父宛の葉書を読みながら初めて分かったのは、家族と合流するまで約二年の歳月が過ぎたということである。国内での単身赴任で2年間家族に会わないなど、そう珍しいことではない。しかしいわゆる外地で、現在のように電話や通信手段がないときの2年間は相当にきつかったはずだ。
 バッパさんの方は、乳飲み子(つまり私のことだが)と幼い二人の子供の世話をしながら教員として働いていたわけだし、なによりも性格的に強いもの(良く言えば)を持っているからそうでもなかったと思うが、父の方は(といって性格についてもなに一つ知らないのであるが)単身赴任の日々をどのように過ごしていたのであろうか。
 後に内蒙古の方に獣医として渡っていく叔父の場合、任地に赴く前に大同学院という養成所みたいなところで中国語や満州事情などの研修があったはずだが、父の場合はどうであったのか。大同学院について調べようと思いながら、今日まで何ひとつ手をつけないで来た。ただこういうこともあろうかといくつか文献を集めてはきた。たとえば
 『大同学院満州行政學会 「論叢」第二輯』(1940年)が役立つかも知れない。いやその前に、満州移住を決めるためになにかガイドブックを読んだのではないか。いやさらにその前提として、当時の日本がどのような満州政策を展開したのか、それを知らなければなるまい。そのことに関しては以下のような文献を集めておいた。

  • 『満洲読本』、南満洲鐵道株式会社編、1940年8訂版、復刻版、国書刊行会、1985年。
  • 『満州建国読本』、徳富 正敬著、日本電報通信社、1940年。
  • 『歴史より見たる日本と満州』、坂本 其山、日比谷出版、1942年。

 さらには、教育や文化を通しての啓蒙書として、次のものが役立つであろう。いずれも復刻版である。

  • 『満州補充読本【復刻版】』 全六巻、国書刊行会、1979年。
  • 『満州文藝年鑑』第一、二、三輯(昭和12~14年)、復刻版、葦書房、1993年。
  • 『満洲生活案内』、満洲事情案内所編、康徳8年、6版。
  • 『満州娘娘考』、奥村 義信 満州事情案内所、1940年の復刻版(第一書房、1982年)

 やるべきことや読むべき文献など、もしかすると若いとき以上の、具体的かつ焦眉の課題が山積している。でもあわてずゆっくり、そして楽しみながら攻めていこう。しつこさにかけては、いささかの自信がある。たぶんあと数日でケリがつくはずだが、例のVHSからDVDへの変換作業であるが、倦まずたゆまず、すでに850本以上の作業を終えた。でも今晩は骨休めに、日本・パラグアイ戦を見るつもり。勝って欲しいが、さてどうなるか。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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