早いもので、この町に帰ってきてからもうすぐ四ヶ月になる。その間ほとんど人と会ってこなかった。来てまもなく郊外に住む父方の従弟の家に挨拶に行ったのと、近所に住む旧友夫婦と二回ほど会食したくらいだ。その間、毎日の買い物などで外には出るが、本来なら挨拶に伺わなければならないところにも、いまだに行っていない。
引っ越し荷物もまだ全部は片付いていない。研究室から運んだ本はまったく手付かずのまま仏間の段ボール箱の山の中だ。体力的にも若いときのように一気に仕事ができない、というのももちろんである。しかしそれだけではない。ちょうど動物が自らの体を少しずつ動かしながら徐々に巣穴を作っていくように、急がず慌てずゆっくりとこの町での生活空間を広げようとしているのだ。
例年ならこの時期、試験問題の作成やら監督、そのあとの採点など、雑用に追われているときである。今年はそれがない。しかしノルマがないこととやることがないのとは別な話である。思えば、四十台の後半から、ずっと今のような生活形態を待ち望んでいたような気がする。つまり自分のこれまでの生き方全ての意味が分からない、それを突き止めないうちは死んでも死に切れない。無理に言葉にすればそのようなことだが、それがここにきてやっと可能になったのだ。昨日書いたA君のことだけではない。記憶の底から掬い上げなければならないものが実にたくさんある。
大作家たちに自らをなぞらえるなんてそれこそ烏滸 (おこ) の沙汰であろう。しかし人間とは、世界とは、と人生の意味を求めて膨大な資料を駆使しつつ大作『戦争と平和』を書いたトルストイも、晩年にいたってふと気がつく。待てよ、こうした人生の機微は自分の幼年時代や少年時代にすでに経験済みのことではないか。人生はその時水平にではなく垂直に生きるものとなる。広げるのではなく掘り下げるものとして現れる。いやー、これはちょっと格好のつけすぎだわ。私の場合は単なる生まれつきの性癖。貧乏性。犬や猫が、たとえば雨の中、小さな空間に自らの存在を縮小し限定する光景にわけのわからぬ感動を覚える。もしかしたら究極的には段ボール生活が理想かも。それかあらぬか、今日は一日中、垂れ下がってきた下の廊下の天井板を段ボールならぬベニヤ板で補修した。ちょっと幸せな気分になった。(7/22)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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