A君のこと

この人口五万弱の小さな地方都市にも、歳月の経過は大きな変化をもたらしている。もちろん変わらない部分もあるが、大部分は想像力を駆使して頭の中で昔日の町並みを再現しなければ確認できないほどの変貌を遂げている。とりわけ駅前付近は今はやりの言葉で言えば再開発対象地域なのだろうか、やたら更地が多い。小学六年生から高校三年生まで暮していたあたりは、当時の面影をまったくといっていいほど留めていない。駅前通り(これがこの町のメインストリートだ)と斜めに交わる道路と鉄道線路から、あゝあのあたりに昔住んでいた家があったはずと見当をつけるしかないのだ。ところで今斜めに交わる道路を火防線と書こうとして、念のため辞書を調べてみた。密かに恐れていたように辞書には載っていない。実はこの言葉は、小学一年生の途中から(つまり満州から引揚げてきて学年途中で入学したので)五年生まで暮した北海道帯広市の通学路も確かそう呼ばれていたので覚えていたのだが。いざ火事だというときに消防車が現場にすばやく駆けつけることができるための道路だと子供ながらに記憶にたたきこんだのだろうが、これまた思い違いか。
 ともあれその駅前道りの一郭に周囲の変化からひとり取り残されたような一軒の平屋がある。まるで映画のセット、それも黒澤明の『用心棒』に出てくるような木造家屋で、時代の流れに執拗に抵抗してきたといった風情である。まちがいなくA君の家である。中学時代、もう一人のB君と三人で毎日つるんで遊んでいた。A君の風貌は、そのころ二木てるみの可愛いい子役デビューで評判だった『警察日記』の伊藤雄之助に似ていた。そしていつのころから、そして何がきっかけかはまったく記憶にないが、その三人の関係がもつれ、A君と私は喧嘩相手になってしまったのだ。たしか中二か中三のとき、写生の時間で出かけた公園の芝生の上で喧嘩になった。もちろん殴り合いの喧嘩など、それが最後である。興奮のため手足がばらばらになったような感覚、そのうち鉄臭い鼻血が鼻腔を逆流したことなどぼんやりと覚えている。
 高校時代の彼の記憶はない。別の高校に進学したのだったか。その後、笑った拍子に顎がはずれ、救急車を呼んだなどという可笑しな噂を聞いたことがある。そしてさらに後年、何が原因かは知らないが、彼の若すぎる死を風の便りに聞いた。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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