相馬移住とともに生活形態がいろいろ変化したが、言葉に関してもその変化は顕著である。簡単に言えば、口数が極端に少なくなったことである。それまでは九十分授業を週に九つ、それに月何回かの教授会や学科会などの集まり、といっても最後あたりは完全黙秘(?)を通したけれど。それ以外にももちろん人と会ったり、電話をかけたりと、口を開く機会が多かった。
今は下手をすると、というよりほぼ毎日、家内との短い会話(バッパさんとは精神衛生上、可能な限り話を交わさないようにしている)、犬や猫への一方的な掛け声やご機嫌取りの言葉、スーパーのレジでの「むぎゅっ」「ふひょー」とかの言葉にならぬ言葉しか話さない。でもこれで失語症になるなんてことはないと思う。特に最近は、インターネットを通じて、音声ではないが、文字による今まで以上の人的交流があり、その意味で言うと言語生活は以前より充実しているとさえ言える。
言葉についてオルテガが面白いことを言っている。すなわち言葉には三つのレベルがある。第一のレベルは、言葉で表現するにはあまりに難しいから黙ってしまう領域。第三のレベルは、あまりに当たり前過ぎて言っても無駄だから、やはり黙ってしまう領域。ということは、通常言葉が使われる領域は、その第二(中間)の領域だということである。しかし改めて考えてみると、われわれはその三つの領域の境界線を自在に侵犯しながら生きている。つまり分かりもしないこと、とりわけ他人の心や意図など、をあたかも知っているかのように、相手の心に言葉の土足で入ってみたり、あるいは内面の空疎さを誤魔化すためにおよそ意味のない言葉を垂れ流しながら生きている。
以上のことを今度は沈黙の意味あるいは質という視点から考えてみれば、第一のレベルでの沈黙は、あまりにも意味内容が豊富なために黙さざるをえない、意味の充満せる沈黙である。スペインの神秘思想家フワン・デ・ラ・クルスはこれを響き渡る沈黙と言った。ところが、第三のレベルでの沈黙は、言うべきことが何もなく、エアポケットのように急いで何かを詰め込まなければとの不安感でいっぱいの沈黙である。
前述したように、たいていわれわれは、お客の心を掴み損ねたお笑い芸人のように、後から臍 (ほぞ) を噛むような言葉を口走ったり、絶好の好機に適切な言葉が出てこないもどかしさを感じながら生きている。まっ、それもいいか。
(9/20)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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