…主義

気がついたら師走に入っている。第二の人生(と言うほどのものでもないが)の初年度が終わりかけている。いくつかまだ遣り残していることがあるが、もともとノルマを自らに課さないことにしているので、アワテナイ、アセラナイ。
 昨日の問題に関して若干のことを付け加えたい。愛国心のその「国」が何であるかが重要であるが、もう一つある。すなわち愛国心はそれが自然発生のもの、排他的でないもの、自らの環境をさらに大切にする心を育てるものなら、あった方が無いよりずっといい。いま「持たないより持ったほうがいい」と言おうとして辛うじて踏みとどまった。なぜなら愛国心は持つものではなく、私たちの方がその中に「ある」ものだからである。言葉を換えれば、愛国主義は御免だということである。
 たとえば伝統というものがある。これは、何らかの価値を持ち、大切にされる要素を持っているものが自然と形を成し、そしてそれが伝えられるときに生まれる。人類が他の動物に比してこの地球上で大きな顔ができるのも、この伝統を他人や子孫に伝える能力を持っているためである。このことはラテン語を見れば実によく分かる。つまり伝統(traditio)とは引き渡す(tradere)ことなのだ。他の動物も、たとえば食物を川で洗うという習慣を仔に伝えるなどのことができるが、人間は単に所作だけでなく、それを様々な仕掛けを通じて正確に、時には創始者の予想をはるかに越える意味と精神性を加味しつつ子孫に伝えることが出来る。
 伝統は、伝えられた者が、それを再び生きるときに初めて「生き返る」が、伝えられた者が伝えられたものを「生きる」のではなく、たんに「繰り返す」とき、伝統は内部から崩壊する。各種家元がときに醜い跡目争いで腐臭を漂わせるのはそのためである。あるいは各地の史跡保存委員会なるものがもっとも伝統から遠ざかっていることがあるのもそのためである。
 愛国者ではありたいが、愛国主義者にはなりたくない。といって、その場合の国は、政治的あるいは経済的(現代両者は分かちがたく結ばれている)な存在ではなく、文化的な共同体であり風土であってほしい。外国人という他者との共存でその独自性が脅かされるような国あるいは文化など、もともと伝承に値しないものと思って間違いない。あるいは神話や作られた美談で鎧わなければならぬ国など、祖国の名に値しないということである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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