向こうはもっと春だった

昨年三月以来、初めての遠出をしてきた。静岡県立大学で、「スペイン文化を貫流する《生》の思想」と題する講演をするためである。といっても五十人ほどの学生と一般の方を前におしゃべりしただけだが。そこのO先生が企画された。田舎にこもったきりの老先生(O君は東京外語の大学院で一年間だけ私の教え子だった) がボケないようにとの親切心から出たお話だと思っている。
 朝八時に家を出て、特急と新幹線を乗り継いで一時半にはもう静岡に着いた。まず陽光の強さにびっくりした。タクシーで大学に向かう沿道には、相馬とは格段に違う暖かな春があった。ところが運転手さんが言うには、昨日今日と静岡は格別の寒さらしい。冗談はよし子さん(林家三平のギャグ)、これで寒いなら、北の方の寒さは何なんだ。春が来た、春が来たと喜んでいたのに、静岡から見れば相馬はまだまだ冬真っ盛り。
 それはともかく、人前で話すのは一年ぶり。その間、犬と猫と妻(とバッパさん)とちんまり静かに暮していたものだから、心配だったのは「上がる」ことよりも、むしろ人前で話すために最小限必要なテンションが生まれるかどうかだった。やはり出だしはさび付いたエンジンを無理に動かす風であったが、徐々にテンションが上がっていき、どうにか無事話を終えることができた。
 「疲れませんでしたか」というO先生のねぎらいの言葉に、「いやーぜんぜん」と言ってはみたが、やはり疲れていたのだろう。しかしその後、O先生を交えて以前勤めていた常葉学園大スペイン語学科一期生たちとちゃんこ鍋屋さんで楽しいひと時を過ごすことができたので、疲れもいっぺんに吹き飛んだ。
 翌日は、新幹線、常磐線と昨日とは反対に北へと向かったのだが、陽光がだんだんと弱まり、いわきあたりに差し掛かったとき、とつぜん雪が舞い始めた。春が遅いことでがっかりすることなどないのに、なぜか淋しいのはどうしてか。帰りの電車では、イバン・イリイチの『人類の希望』(新評論、1981)を読み継いだ。過剰な豊かさを敢えて断念する、豊かさからプラグを抜く(unplugging)ということについて考えた。時速何百キロという移動機械の上で、コンビビアルな(共生しつつ自立的な生き方を求める)移動手段のことを考えるのは少し変だが、明日からは少し車を控えて彼の勧める自転車でも使おうかな、などと考えながら、ときおり窓外のみちのくの遅い春景色を眺めて帰って来た。 (1/31)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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