なにやら拡声器で叫ぶ声がする。この小さな町で物売りの宣伝カーなどめったに歩かないはずなのに。今日は日曜なので張り切ったのかな、と思って耳を澄ませてみると、どうも立候補者の宣伝カーらしい。先日、市議会議員選挙の投票所入場券のはがきが送られてきたことを思い出した。
消極的な意思表示としての投票権の放棄をいつごろ始めたのかよく覚えていない。といって確たる信念のもとの棄権でもない。昔、大きく政治の流れが変わるのでは、と期待して投票所に出かけ、それがものの見事に裏切られてから次第に投票所から足が遠のいただけの話である。
夫婦して新しい流れに掉さすつもりで投票に出かけても、日本保守政治を支える草の根みたいな同居老親が、とびきり保守的な候補者にしっかり二票入れるのだから、二引く二はゼロ、勝負は初めっからついていた。
民主政治にまつわるあらゆる神話に対する夢も、もうとっくの昔に醒めている。現代のような複雑怪奇な世の中では、非政治的であることが時にラディカルなまでに政治性を帯びるなどとボヤいてみても、所詮負け犬の遠吠えでしかあるまい。
しかし政治にしろ経済にしろ、そしてもちろん教育にしろ、今まで積み上げてきたものは、もうとっくに金属疲労を起こしている。こういうとき、とるべき道は二つだろう。つまりそれに代わる新たな機構への切り替え、そしてもう一つは漸進的な戦線縮小である。しかしエネルギー政策などに典型的に現れている前者の考え方は、現在の水準を落さないままで代替エネルギーをどうするか、というものであって、欲望の再生産であるかぎりいずれ行き詰まるのは明らかだ。そしてイリイチの言うアンプラギング(従来の連鎖から自発的に降りる)ことはだれも考えない。
政治にしろ教育にしろ、これまでのあり方に対する根源からの見直しのないまま、小手先の改革、理念なき改革が先行する。選挙などしないで、独自な信念のもとに政治に関与したい者の他薦自薦リストを作り、無能力とか失政がはっきりした者から次々と取り替えていってもどうってことはない。つまり社会はけっこう正常に機能する。学校なんてつぶれてしまっても、人間はけっこう真面目に、いやはるかに誠実に身のほど弁えて生きて行くだろう。
ところで市議選が近くなって、また家のバッパさんが元気になってきた。まっそれもいいか。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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