孺子の牛

今月の18日からあ21日まで、帯広の叔父が我が家に滞在した。バッパさんとは誕生日を同じくする最愛の弟である。91歳だが、同居を勧める娘夫婦の説得にもかかわらず、気ままな一人暮らしを貫いている。連日、パークゴルフ、カラオケ、ダンスと遊びの日程がぎっしりの生活だから、その気持も分かる。実は直前までガールフレンド(むかしバールフレンドなんて言葉が流行ったことがあるが)を同伴する予定だったが、相手方の都合で実現はしなかった。だが、その元気さに拍手を送りたい。
 さてその叔父が泊まった二階座敷に、バッパさんが購入したと思われる二幅の、というより一対の掛け軸があり、帰り際に、あの漢詩の意味が知りたい、と言う。昨日、そのことを思い出して、調べてみた。魯迅の詩である。以下、高田淳著『魯迅詩話』〈中公新書〉からの継ぎはぎでまとめたものである。



孺子の牛となる             魯 迅
自嘲

 
 運交華蓋欲何求   運は華蓋 (かがい)に交 (あ) い  何をか求めんと欲する
 未敢翻身巳碰頭   未だ敢えて身を翻さざるに 巳に頭を碰(う) つ
 舊帽遮顔過鬧市   旧帽に顔を遮 (かく)して鬧市(どうし)に過(よぎ)り
 破船戴酒泛中流   破船に酒を載せて 中流に泛(うか) ぶ
 横眉冷對千夫指   眉を横たえて冷やかに対す 千夫の指
 俯首甘爲孺子牛   首を俯 (た)れて甘んじて為る孺子(じゅし) の牛
 躱進小楼成一統   小楼に躱〈のが〉 れ進みて 一統を成し
 管他冬夏興春秋   他 (そ)の冬夏と春秋とに管(かま)わんや

『魯迅日記』一九三二年十月十二日にある詩。
 魯迅は凡人が頭にかぶると不幸になるという華蓋 (花のかさ)を、自らの出会った運命のかさと思い定めてかぶりつづける。頭をぶつけ傷をつくって、その傷はいよいよ深くなるが、その帽子を敢えて脱ぎ捨てようとはしない。今日も雑踏する街 (鬧市)を古い帽子で顔を隠して通り過ぎ、ぼろ船に酒をのせて川の流れにただよう。
 五行目の〈横眉〉以下の二句は、一九四二年五月毛沢東が延安での文学芸術座談会の席上、次のように引用説明してから、とくに有名になった。
 「われわれはこの二句を座右の銘としなければならない。ここでは〈千夫〉とは敵のことをさす。われわれはいかなる凶悪な敵に対しても決して屈服するものではない。ここでは〈孺子〉とはプロレタリア階級と人民大衆のことをさす。すべての共産党員、すべての革命家、すべての革命的な文学芸術活動家は、魯迅を手本にして、プロレタリア階級と人民大衆の〈牛〉となり、命のあるかぎり献身的につくさなければならない」
  〈孺子の牛と為る〉とは、幼児を遊ばせるために馬になること。〈小楼にのがれ進みて…〉以下は、小さいながらも我が家を治めて、外の〈冬夏春秋〉の変化に対しては、我関せずの態度をつらぬく、の意。


 いい忘れたが、掛け軸は、「横眉」で始まる行と、次の「俯…」で始まる行、つまり毛沢東が座右の銘とすべしと絶賛したあの二行である。そして以上の文章をさっそく北海道に送った。また同じコピーを我が家の嫁にも渡した。いつか中国語の音でも聞いてみたいと思って。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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