色褪せたプレゼン

午後何気なくネットの自分の評論集を見ていたら、Presentation という英語で書かれた文章が見つかった。先日造った『宗教と文学』を最後として、手持ちの原稿はすべて(かなりの分量の日記を別にするなら)私家本にしたはずだが、まだ何か残っている文章はないか、と考えながら見ていたので、「何気なく」というのは正確ではないが。
 冒頭、2003年に付けた以下のような覚書があった。

  • 古い書類挿みの中から、J会哲学生時代に書かれたと思われるカーボン紙で打たれた英文のレポートが見つかった。A4にびっしり4枚のこのレポートは、おそらく哲学の勉強を終える前に、次年から始まるはずの中間期に何をしたいか報告しなければならず、そのために書かれたものと思う。日付は1966年の聖ペトロ・カニジオの祝日12月21日である。
     ちなみに翌1967年11月12日、修道院を出て、上野から夜9時15分原町着の電車に(汽車だったか?)乗った。
  • 読み返して実に不思議な恥ずかしさを覚える。このまま会に残らなくてよかった。中途半端な聖職者ができあがっていたはずだからだ。一時は聖人志願の時代もあったのに。
  • 佐古純一郎が一つの道標 (?)だったこともあったのだ、と驚いている。よかった、その道を進まなくて。
  • しかしなんのかんの言っても、骨格は紛れようも無く私自身のそれだ。こういう私自身の原型をともかく確認しておこう。ずいぶんと謙虚にならざるをえない。                        

(03/2/26記)

 

 最近テレビでやたら使われるようになったいわゆる「プレゼン」である。毒を食らわば皿まで、という心境になっているので、さっそく『宗教と文学』の巻末に収録することにした。
 確かに42年前に自分が書いた文章ではある。しかしそれが英文だから、という理由だけでなく、プレゼンが本来もっている「自分を売り込む」といういやな面が露出した文章で、こんなもの他人さまの眼に晒したくないな、と思いつつ、一種自虐的な感情が働くのはどうしたことか。
 英文そのものは、だれかネーティブの助けを借りたにしろ英作文の域を出ない出来だが、中に気になる単語が一つ入っていた。regency である。前後関係から、それは哲学と神学の勉強のあいだ、つまり哲学や神学以外の勉強やら実習やら、将来の活動に役立つ準備をする一種のインターン期間のようなもので、J会では文字通り「中間期」と呼ばれる時期を指しているらしい。普通の英和辞書には「摂政職もしくはその期間」としか出ていないが、 Grijalbo の「西西辞書」には regente について「修道会で、勉学を統括する役僧」とあるから、それとの関連で使われるようになったのか。そんなことはJ会に残っている(?)かつての友人に聞けばたちどころに分かることだが…

(※以上の文章、実は大部前に書いたものだが、せっかくだから〈?〉公表する)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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