大同学院は大同元年(一九三二年)に設立された満州国の中堅官吏研修機関である。残っている写真で見ると、おそらくレンガ造り二階建ての立派な建物で、場所は新京(現在の長春)。後から行った叔父が大同学院で学んだことは聞いていたが、父については知らない。一九三九年、単身で海を渡り、先日引用した九月二十三日付けの叔父宛てのはがきには、灤平着についてしか書かれていないので、それ以前に学院での研修期間があったかどうかは分からない。しかし官吏として赴任するのであるから、短期間のものであれ、とうぜん研修をしたはずである。
ウィキペディアによると、「入学資格は当初、満州国の官吏に限られたが、後に協和会の職員など特殊団体職員も対象となった。満州国滅亡までに4,000人の卒業生を輩出した」とある。ということは、獣医の叔父が入学資格を認められたのは、彼が昭和十六年(康徳八年)と比較的遅い時期に渡ったからであろう。ちなみに「協和会」とは、満州国において一九三二年七月に設立された唯一の官製の政治実践、教科団体で、名誉総裁は溥儀、後の大政翼賛会のモデルとなった組織である。
ところで父がどんな役職についたか分からないと先日書いたが、昭和十七年七月、名古屋に住んでいた長兄褜吉(えなきち)に宛てた手紙の中でしっかりと報告していたのに気づかなかった。「本年一月教育股長(こちょう)より庶務股長に転じ、去る六月の縣機構の改革に新設の企畫股長を拝命、微力ながら北辺の牧民官の一人として寧日なき繁忙さにも頑健で勤めてゐます」。
股長などと耳馴れぬ言葉だが、今で言う係長であろう。わずか半年の間に三つも担当が変わっている。「寧日なき繁忙さ」は文字通りのことだったのであろう。そのわずか一年ちょっと後で死出の旅に出るのだから、そのころ既に体に変調を来たしていたであろう。僻地の僻地に薬などあろうはずもない。もちろん医者もおらず、薬も栄養も与えられぬまま無資格と思われる軍医に看とられて息を引き取るのである。すでに床に就くようになってからのことだろうか、「ピカレスク自叙伝」にも書いたとおり、スッポンの生血をコップに空けて飲んでいたことを思い出す。
ここ数年来集めた当時の資料の中に、『大同学院編纂 論叢 第二輯』(満州行政學會、昭和十五年、新京)がある。「皇道日本国と王道満州国」とか「満州鉱産資源の国防的意義」などおそろしいタイトルの論文が八つほど載っている。とうぜんのことながら、いずれの論文も満州国の前途を洋々たるものとして論じている。たとえば冒頭の「皇日本と王道満州国」では、満州国の創建を、西洋のアメリカ合衆国と肩を並べるものとして、「人類の作り出した最大なる綜合文化の傑作品」として完成させようと意気込んでいる。
父も「五族(日、漢、満、蒙、鮮)協和」による「王道楽土」の理想を信じて満州に渡ったのであろう。しかし集家工作のお先棒を担がされているうち、それが実態といかにかけ離れた偽りのスローガンであるか、眼の先が暗くなるような失望の中で思い知って行ったのであろう。
ところで父の手紙は、先に上げた昭和十七年七月の長兄宛ての手紙がいまのところ最後の手紙である。他に引揚の時も大事に持ち帰った携帯日記帳は住所録しか使われておらず、病が嵩じて死の床に横たわってからのことは一切記録が残されていない。こんなことならもっと前にばっぱさんに聞いておけばよかったのだが、今となってはそれこそ後の祭りである。まだ記憶がしっかりしていた時のばっぱさんの証言が辛うじて残された唯一の手がかりである。
「主人が生前、省公署の役人達との宴席で、悲憤慷慨の余り、必ず繰り返した言葉は、今でも耳の底に残っています。<日本人は全部悔い改めて出直すべきだ>」