この「モノダイアローグ」を鳴り物入りというわけではないが、私としては少し派手めに出発させたのはいいけれど、果たして書くものがあるのか? そしてどのように、どれくらいの間隔で?
日記は書いているほうだろう。いちばん集中的に、また量的に書いたのは、二十二、三歳からの五年間である。日本の比較的南にあるH市での三年間に及ぶ修行(かっこつけて言えば私の「魂の兵役」)を含む五年間である。しかし今読み返してみると、確かに記録としての意味はあるが、「面白くない」のである。「反省」が多いのだ。
私自身はあまりいい読者ではないが、妻がまるで聖書のように耽読している日記がある。武田百合子さんの『富士日記』である。なぜ面白いか。それは百合子さんが夫・泰淳氏のただ一つの忠告を忠実に守ったからである。「反省文は書くな」
しかし考えてみると(今更考えなくてもだれの目にも明らかだが)、昨日書いたものも、今書いているものも、言ってみれば探り針、つまり何をどのように書いていいか分からないことをなんとか誤魔化すための「屁理屈」である。「反省」も不要だが、「屁理屈」はさらに不要である。
ただこうして書いているうちに分かったことが三つほどある。一つは書き出す前のあのなんとも形容しようのない無能感(?)、無気力感がいつの間にか消えていること。二つ目は、書いているうちに忘れていた過去の細部がよみがえってくること(たとえば武田百合子さんとどこかのパーティーでお会いしたこと、その時、車でパーティに来る途中とつぜん飛び出した猫を避けようとして危うく大事故になりかけたことをあの大きな目をさらに大きくして話されたことなど)。そして三つ目は、日頃気のつかなかった言葉たちとの思いがけない出会いや発見があることである。先ほど「探り針」という言葉を書いた。念のため辞書を引いてみた。そんな言葉はないのだ。そのとき、「ゾナー」とか「ソナー」という音が頭に浮かんだ。西和辞典を調べると sonar(水中音波探知器)があった。「探り針」もそのような意味合いで使ったのだが、実は日本語にはないらしい。でも鍼(はり)などの専門用語としてあるのかも。
ここまで書いてきての結論というか決心一つ。すなわち毎日、たとえ書くものがないように思えるときでも、ともかく書き出すこと。(7/10)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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