言論統制が厳しいわが国の戦時下でも、結構言いたいことを言って、それでも特高に捕まりもしないし、お上に密告もされないで生き延びた人がいるかも知れない。先日話題にした北御門二郎氏は徴兵拒否をしながら、奇妙なエアーポケットにうまくストンと落ちて、まるで透明人間になったかのように、徴兵官や特高の眼には見ても見えない不思議な存在となった。もちろんこのことは彼の反戦思想が確信犯的なもの、揺るぎなきものだったからこそ起こった珍事かも知れない。
異端審問の嵐が吹き荒れた十六世紀ヨーロッパでも、似たような不思議は各所に起きていたようだ。つまり憎しみや妬みからの密告によって、身に覚えのない嫌疑をかけられて焚刑に処せられた運の悪い人がいるかと思えば、おおっぴらに異端めいた言動がありながら、当局から睨まれることもないまま、穏やかな死を迎える人もいた。何故だろう。ずっと気になっていた。もちろんこうすれば安全であるという絶対安全な秘策や保証があるはずもない。
こんなことをまた考えさせられたのは、昨日話題にしたベリガン兄弟のことからである。弟フィリップは100回以上も投獄された。これがアメリカでなければ、とっくに死刑になったりリンチされたりしていたであろう。兄のダニエルは、投獄の回数こそ弟の半分だが、イエズス会士であり続けている。少しばかり内情を知る者にとってこれはやはり驚きである。上司(たぶん上長と言ったと思うが)や同僚(たぶん修友と言ったと思うが)からの諌言(かんげん)ら訓戒、時によっては脅し、同僚からのお為ごかしの忠告や嫌がらせなどがなかったはずがない。それらをどうすり抜けてきたのか。
もしかするとここにはいじめのメカニズムのようなものが働くのかも知れない。つまりいじめが発生しないためには、いじめられる側にちょっとやそっとの脅しにはびくともしない意思の強さがまず必要であろう。すなわちいじめる側に退っ引きならぬ覚悟を求める迫力が大事である。次に、己の身をことさら衆人監視のもとに置き、こうすることによっていじめる側に部外者の目を意識させることである。あるいはかつての舞の海よろしく、相手の懐にこちらから飛び込んでいくという手もある……。
むふっ、なにやかや言っても、結局自分には立ち向かう勇気も、攻撃をかわす才覚も無いということである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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