わずかに残っていた花びらも今朝からの雨に無惨なまでに痛めつけられ、もはや数日前のあの輝くような美しさはない。はかない美しさ。なるほど櫻が古来から日本人の美意識の中心部分にあったこともうなづける。
ところで昨夜は、この町に唯一残っている映画館で、イスラエルとパレスチナの子供たちを描いたドキュメンタリー『プロミス・約束』を見てきた。朝日座は、昔は三つあった映画館の兄貴分として、主に東映などの邦画上映館として栄えたのだが、今はひと月一度くらいのこうしたイベントのために開館されるだけになってしまった。内部に入ったのは何十年ぶりだろう。二階両脇にあった畳敷きの客席も今はないが、今後も映画館として生き続けて欲しいものだ。この映画館については、その厖大な上映記録をまとめたものが近く出版されるという。地方映画館の歴史は、娯楽手段の多様化、さらには急激な流通革命の中でもまれにもまれて来た地方都市そのものの歴史と重なる。
ところで映画はJ・シャピロとB. G. ゴールドバーグが2001年に監督制作したもの。エルサレムと難民キャンプに住む七人の子供たちがある日ゴールドハーグ(名前からしてユダヤ系アメリカ人だが、実はエルサレム生まれ)の計らいで、初めて出会い交流するという簡単な筋だが、しかしまたなんと複雑で重いテーマを抱えていることか。一人の少女が(ユダヤ人だったと思うが、パレスチナ人だとしても同じことだ)台所で椅子を片付けながら憑かれたように将来の自分の結婚生活を語る場面があった。あれだけ詳細かつリアルに自分の未来を思い描くということは、逆にいかに現在が不安定かつ危険な日常であるかを語っていて哀れである。事実、一人のパレスチナ少年の弟は、石投げで歯向かったためにイスラエル軍兵士に射殺された。
まだ十代前半の子供たちなのに、なんと重い、そしてなんとのっぴきならぬ難題の前に立たされていることか。そのため、たとえば日本の並の大人以上の密度の濃い時間の中に生きている。一瞬、人間の人間らしい成熟には不幸とか戦争が必要なんだ、という思いに捉えられたが、もちろんそれこそ悪魔的で倒錯した思いだ。国、文化、宗教とは何か、いやそもそも人間とは何者か、という実に重たい宿題を背負わされて帰って来た。教会に行かぬ私たち夫婦にとって、これが復活祭前夜にふさわしい時間の過ごし方となった。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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