いよいよオルテガ『大衆の反逆』が動き出した。「フランス人へのプロローグ」の最終チェックを終え、昨日から第一部に入った。そろそろ解説のことも考えなければならなくなってきた。『大衆の反逆』の解説は、すでに2002年、寺田和夫訳中公クラシックス版の時に書いている。そして自画自賛で失笑を買うであろうが、大変な自信作で、今読み返しても満足できる出来なのだ。
だから本音を言うと、できることならそのまま今度の訳に使いたいくらいなのだが、まさかそんなことが許されるはずもない。新たに書くとなったら、エヘン(これは単なる咳払い)、ハードルが高くなるが致し方ない。
ところで、『大衆の反逆』は、今度で六番目となる。つまり五人の錚々たる先輩方の訳業が存在するということだ。それらを年代順に並べてみる。
① 佐野利勝訳、筑摩書房、1953年12月25日
② 樺 俊雄訳、東京創元社、1953年3月25日
③ 神吉敬三訳、角川文庫、1967年
④ 桑名一博訳、白水社、「オルテガ著作集」第二巻所収、1969年。
⑤ 寺田和夫訳、中央公論社、「世界の名著56」所収、1971年
①と②はドイツ語からの重訳であるが、発行月日をみても分かるとおり、わずか9ケ月の差しかないが、互いにまったく知らなかったようだ。あるいは知ってても無視したか。
また③~⑤は、それぞれ、ちくま学芸文庫、軽装版、中公クラシックス版が出ているから、トータルとしてかなりの数の翻訳が出回っているわけだ。
いやそんなことより、恩師や先輩の訳業があるのに、あえて新訳を出す意味は何か、と問われれば、答えに窮する。出版社側の意向は、とあえて虎の威を借りるなら、「いま、息をしている言葉で、もう一度古典を」となる。
いいんでしょうかね、自分からそんなにハードルを高くして。いや、正直困ってます。ただここまで来たので、もう腹を括ってます。実は訳そのものは二年前くらいに終わってたが、編集者からの注文にかなり抵抗し、一時は作業をストップしていた。しかし先日も報告したように、自分でも不思議に思うほど、その「注文」に応じるのも意味あることだと思えてきたのである。そうなると作業が急に面白くなり始めた。
たとえば、「フランス人へのプロローグ」冒頭の、(la obra de caridad)をキリスト教用語にこだわって「愛徳の業(わざ)」としていたのだが、別にそれにこだわるまでもない、と考え「思いやり」としたり、そしていま使った「こだわり」という言葉も、adhesion a la cultura を「文化への密着度」とずいぶん硬い訳語を当てていたのを、今回は「文化へのこだわり」としたことなどは、そのほんの一例である。
いやそんなことより、スペイン語の構文を忠実に移し換えることを止め、長い文章を短く切ったり、すんなり意味が通る文章に直したりしている。
「一義的」とか「排他的」など哲学用語なども思いきって「開く」ようにしている。Hiperdemocracia も「超デモクラシー」とかそのまま「ハイパー・デモクラシー」と訳すより、本当は「はしゃぎすぎのデモクラシー」とでも訳したいのだが。というのは、むかし美子が「あの人ちょっとハイパーね」などとアメリカン・スクールの日常的表現としてよく使っていたからである。つまりテンションが高く、「浮いている」人を評する言葉として。
このごろの国会討論などをたまにだが見てみると、こちらが歳をとったせいか、嘴の黄色い若手議員が、やたらテンション高く相手に噛み付いているのを見ると、オルテガならずとも、民主主義は衆愚政治か、と思いたくもなる。国会もそうだが、テレビや新聞の品のないやり取りを見たり聞いたりしていると、まさに「大衆人」跋扈の当世にうんざりする。
いや、そんな意味でも、『大衆の反逆』は実に今日的な古典ですぞい。