遺骨を抱く少女

昼前に古本屋から届いた本を見つけた妻が、「先に見ていい?」と言って持っていった。しばらくしてなにやら息を呑む気配。何を見ているのだろう、と近づいてみると、片腕を白い三角巾で吊った少年の写真である。しかしまた何と痩せていることか。スカート(?)の下から出た二本の足に肉はほとんど付いていない。
 「こんなに痩せてしまって、よく帰ってきたねー。パパもこんなだったんでしょう」とつぶやく妻の声は涙声である。あわててキャプションを読んでみて、ようやく事情が飲み込めた。「<遺骨を抱く少女>―二一年七月、奉天(現瀋陽)の孤児収容所近くで出会った少女は断髪して男の子の姿、胸にしっかりと母の遺骨を抱き、北朝鮮・阿吾知から六〇〇キロを歩いてきたと言った…」
 このところ古本屋から満州関係の本を取り寄せることが続いた。先日は児島襄の『満州帝国』(全三巻、文藝春秋社、一九七五年)、角田房子の『墓標なき八万の死者――満蒙開拓団の壊滅』(中公文庫、一九八二年)、そして今日は読売新聞大阪社会部の角川文庫四冊(『中国孤児』、『中国慰霊』、『中国侵略』、『満蒙開拓団』、一九八五年)である。
ところで先ほどの写真は、『中国孤児』の巻頭にあったもの。そこにはさらに私自身がたどった道筋を記録した写真が数枚収録されていた。つまりコロ島の埠頭、上陸用舟艇、さらにその船倉で食事をする引揚者たちの姿である。不確かな記憶がこれらの写真でその輪郭をはっきりさせ、そして補強された。
思えば、今ごろになって満州時代のことを思い返し、その意味を考えようという気になったのには、二つの要素がうまい具合に重なったからである。決定的なのは、内モンゴル自治区からの留学生O. Gさんとの出会いであるが、そうした回帰への意志も、インターネットがなければ多分持続できなかったと思う。今はただ文献や書籍との出会いだけだが、根気よく探索していくならば、さらに多くの、しかも生の証言に出会えるのは確実である。
 私自身のこれまでの無知と不明を棚に上げて言うのだが、日本人はこの満州体験を決して忘れるべきでないし、次代に語り継がなければならないのだ。飽食と平和ボケの中でちょっとした不便や不如意にすぐ音(ね)を上げてしまうそこの贅肉をつけたおっさん(えっ、それって私のこと?)、あの過酷な体験を経て今さら怖いものなど無いだろう。墓標も無しに死んでいったたくさんの人たちのためにももっと頑張れやー。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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