突如現れた過去

先日、同じ町に住む、というよりたかだか三百メートルのところに住む、詩人の■さんから思いがけないものを頂いた。小説家の埴谷雄高氏が三十六年前に撮った写真二十八葉である。これは昭和41年の7月23日から25日にかけて、氏が野馬追い見物を兼ねて先祖代々の墓を訪ねられたときに撮った写真である。小高町の「埴谷・島尾文学記念館」に寄贈された埴谷氏の遺品の中から出てきたネガを、そこの顧問をされている若松氏のご好意で焼いたものである。
 埴谷氏が撮ったのであるから、それら写真の中に氏ご自身の姿はない。ただ氏の眼に祭や人間たちがどのように映じたかが窺えてなかなか面白い。フィルムはその当時はやっていた35mm半裁版で、旅行中に使われた本数はたぶん3本、そのうち私や私の家族が写っている部分をいただいたことになる。この相馬行については埴谷氏の「無言旅行」という美しい文章が残されている。当時J会の哲学生(神学生の一歩手前)だった私が埴谷氏をお誘いして、氏と同郷の島尾敏雄の二人の子供(伸三君とマヤちゃん)を加えて総勢四人の二泊三日の相馬への旅であった。ところで写真の中には車中の私の写真もある。真夏なのでローマン・カラー姿ではないが、白いYシャツの胸に小さな十字のバッジをつけて辛うじて神学生らしさを保とうとしている。鹿爪らしい顔で聖書を読んでいるこの若造は、埴谷氏の目にどう映ったのであろうか。
 ともあれその晩から埴谷氏は、いまこの原稿を書いている陋屋に泊まられた。翌日は朝から、初め沿道で武者行列、次いで雲雀が原で神旗争奪戦を見たあと、おそらくはバスで小高町へ、そして島尾兄妹はそこの島尾の本家に行ったはずだ。埴谷氏と私は草深い埴谷家の墓所を訪ね(なんと墓石の後ろに若いバッパさんの姿も!)、そしてその夜、小高川河畔での花火見物のあと汽車かバスで帰宅したと思う。写真では翌日は近くの海で義兄や小さな二人の姪と一緒に海水浴をしたことになっているが、私の記憶からは完全に抜け落ちていた。埴谷氏はここでも姪たちの遊ぶ姿を何枚も撮っておられる。その夜は近くの喫茶店で、町の文学グループによる埴谷氏を囲む会があり、そして翌日、小高の駅で島尾兄妹と合流して東京に帰ったと思う。なにしろ36年も前のこと、埴谷氏の残してくださった写真で記憶の欠落部分を埋めることができた。今は死霊の国で壮大な夢を紡いでおられる埴谷氏に感謝したい。      

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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