先日引越し荷物を整理していたら、作家埴谷雄高氏からのはがきが四十枚ほど出てきた。そのうち二十五枚は挨拶文がすでに印刷された年賀状に短く近況が書き加えられたものだが、中には旅先のマドリードから出されたゴヤの「着衣のマハ」の絵はがきや(確か辻邦生氏とご一緒のヨーロッパ旅行で、年譜を見れば何年の旅か分かるが)、平成七年四月二十七日消印の、武蔵野赤十字病院四〇一号室から本名の般若豊で出されたものもある。この最後のはがきは、いつものように太い万年筆を使っての豪快な筆致のものではなく、芯の細いボールペンでいかにも心細い筆跡で病状を詳しく書いたものであり、あの古武士のような埴谷さんが一気に老人くさくなっていて、読むたびに悲しくなる。どちらにしてもこのはがきは個人で持っているより、隣の小高町にできた「埴谷・島尾記念文学資料館」にいずれ寄贈しようと思っている(実はあるこだわりから未だに訪ねていない)。
それはともかく今埴谷さんのことを思い出したのは、私たち夫婦の最近の話題といったら「物忘れ」関係のものが多く、時には本気で喧嘩になってしまうこともあるからである。歳をとるということは、悲しいことに記憶力の減退と併行しているわけだ。埴谷さんは、私たち凡人には最後まで頭脳明晰に見えたが、しかしだからこそであろう、確実に記憶力が減退していく冷厳な現実を早くから意識しておられたようだ。「ボケ」という言葉が出てくるのは、一九八〇年頃からで、以来「ボケ進行中」とか「ボケから大ボケへ」といった言葉が頻出する。
まだ突き詰めて考えたことではないが、私にとって希望の最終的な根拠は記憶である。しかしその肝心の記憶が、死に近づくごとに不確かなものになっていくとしたら、なんとも心細いかぎりである。刑務所から出てほどなく自殺してしまうあの映画『ショーシャンクの空に』の爺さんのように、天井の梁に大急ぎで自分の名を刻んだりするのもその心細さのしからしむるところであろう。いや人のことはどうであれ、この「モノディアロゴス」そのものも、ぶっちゃけた話、自分が生きている痕跡をなんとか文字に書き残そうとする試み以外のなんであろう。でもこのモノディアロゴスが『死霊』のように多くの人に読み継がれるものならいいが、とどのつまりは、茫洋と広がる仮想空間の闇に打ち上げられたまま消えていくものだとしたら……
【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)から他所でいただいたお言葉を転載する(2021年4月12日記)
確かに身につまされることしきりではあります。自分のどじさ加減を罵ることが無意味であることを承知しつつ、このごろ同じ轍を踏んでいます。
かつてうんと若かったころに、永井荷風のことを書いた誰かのエッセイを読みました。その筆者は晩年の荷風の筆の衰えを露呈した小説を読んで、こんなものなら書かぬほうがずうっとマシであると思ったと同時に、荷風の不幸に同情をそそられたと書いていました。つまり、あれほど文壇で大御所だったがゆえに、かえって編集者が本人に執筆と発表を思い止まらせられなくなってしまった、文豪の不幸たるゆえんは大家になりすぎてしまったことにある、と。
皮肉とも嫌味とも受け取られるエッセイでしたが、どうしてか筆者を覚えていないのです。
大家の晩年の心身の凋落は悲哀を感じさせずにいないのはそのとおりですね。
自分の精力の持続が何処まで期待できるものやら、年ごとにそれが衰えてゆくのは確実ですが、一生懸命やり続けるほかはありません。
そこへゆくと、古代の未開時代の風習は、残酷であっても理にかなっていた面があったことは否定できません。王が弱ると共同体そのものが弱体化するので、王の力を始終試す必要がありました。即ち暗殺者が絶えず現われ、王を闇討ちしようとしました。その危険を防ぎきれなくなったときが王の命運が尽きたときとみなされたのです。
このような野蛮な風習は世界中に痕跡があり、そこから古代王権の秘密を解き明かそうとして、英国の人類学者がライフワークとなる研究に着手しました。日本語訳で『金枝篇』と呼ばれています。
この研究を読んでいると、ある意味では卑怯な暗殺者の存在は王にとって救済だったようにも思われてくるから妙です。心身が弱った王は、王の権力に寄生している階層はそのまま温存の対象でしょうが、真に共同体の健康維持のためには隠退か暗殺されてしかるべき存在です。
フレイザーの研究で興味深いのは、いつもいつもではなくとも、暗殺者が何者であってもよいとされている点です。
こういう観点に沿ってマクベスのような劇も見直す必要があるとわたしが持論を言って嘲笑されたことがありますが、下剋上という言葉もあるのですから、嘲笑した連中はほとんどが学会という体制の序列信奉者どもであって、文学からも歴史からも真理を学び取ろうとはテンから考えてもいない連中です。
ついでに申しますと、『地獄の黙示録』という映画がありました。あれは『金枝篇』を踏まえて作られていますが、暗殺者と被暗殺者との関係に興味深いものがあり、擬似的な父子関係を暗示していますね。暗殺者は命令を受けて暗殺を決行するのですが、映画をよく見ると、息子が尊敬する父親を父親の尊厳を守るために殺すというのが深層にある動機です。
しかし、映画では父親が王として君臨していた共同体は守られません。瓦解し、滅亡する運命を辿るのです。それは共同体そのものが幻想にすぎなかったからです。
死すべき運命にある王自身が誰よりもそれを知っています。というのは、王はエリオットの詩を好んでよく朗唱している。よく知られた詩です。
「われらはおが屑を頭に詰め込まれた虚ろな人間である」という詩です。
いきなり話が飛びますが、わたしはコロナ禍で毎日とっかえひっかえ出てくるいろいろな組織の長や専門家の親分を見るにつけ、もちろん総理大臣を始め陣笠どもや知事や病院長や研究所長や出たがりのコメンテーターにいたるまで、かれらが関わる組織の「責任者」でありボス、小ボスでありましょうが、古代未開の風習にはあった合理性を欠いた、ただただ愚劣な現代のポンチ絵の動く展覧会を見せられているような錯覚を持ちます。