止まっている、いろんなものが止まっている。昨日、生長の家に触れて、底が浅い、とかかなんとか言ったが、それじゃお前はどうか、と言われれば根本的な問題の前に止まっている、いわば思考停止の状態であることを白状しなければならない。もし今の私を規定するとしたら、言葉のきわめて緩い使い方をして、ウマニスタか。フランス語で言えばユマニストとなろうが、しかし十六世紀スペインの思想家たちの流れに連なるという意味で、やはりウマニスタと言いたくなる。
それは生涯の大半を費やして関わったスペイン思想の研究から自然と導かれた世界観・価値観だが、それの実証作業が道半ばのまま放置されている。そんなことを漠然と考えているとき、居間から廊下に出たすぐの鴨居にしつらえた本棚の中ほどに、背中が焼けて題名がはっきりしない一冊の本を見つけた。G. デュアメルの『パトリス・ペリヨの遍歴』(渡辺一夫訳、岩波現代叢書、一九五二年)である。どういう経由で紛れ込んでいたのか分からないが、中に挟まっていた一枚の御絵(昔カトリック信者がキリストや聖人の肖像画を印刷したカード状のものをそう呼んでいた)から、たぶん以前教会の賄いなどを担当していたGさんのものでは、と推定できる。マルタン・デュ・ガールの本など他にも彼女の本があるからである。
それはともかく、デュアメルその人より渡辺一夫の訳ということで、とりあえず持ってきてみた。彼の巻末の解説によれば、この小説は一九四〇年代フランスの知的状況、とりわけアラゴンとデュアメルの論争を軸にした小説らしい。レジスタンス運動をめぐって、急進的なアラゴンに対して戦闘的な参加(アンガージュマン)をきらう穏健なユマニスト・デュアメルの主張が展開されているらしい。中にこんな一節を見つけた。
「人間といふ生物の研究が新らたに考慮され、それが万人の納得がゆくように示される以外に人間の狂態の制御の道はないのではないか……正当に解されたユマニスムの滋養分の多い果実を見逃すことなく、各民族は、我々が近代人文学と呼ぶべきものを以て、古典的人文学を補ふべきである」
その後、デュアメルの希求した新しい人文学思想は生まれたのであろうか。私にはそうは思われない。当時のおおかたの思想家が危惧したように、機械文明・物質文明がかつてないほどの勢いとスピードをもって世界全体を席巻し、新たな人文学、私の言葉では新たな人間学、の目論見は頓挫したままではなかろうか。
いやいや他人事ではなく、私自身の模索は頓挫どころか、構築のために準備したものさえ忘却と消滅寸前の状態である。ボケてなぞいられないぞ。あゝそれにしても体力の衰えは気力の衰えと連動しているようだ。ともかく腰と膝の状態がいまだ旧に復さず、ただ気ばかりが空転している。