阿Q誕生の経緯

中野美代子女史は、魯迅のエッセイの中にドン・キホーテに触れたものが二つほどあると書いているので、岩波の『魯迅選集』を当たってみた。ところでわが貞房文庫には二種類の選集がある。正確に言うと十七巻全部が二種類あるのではなく、一部が重複しているのだ。藍色とカーキ色の二種類あって、藍色のものは十七巻全館が揃っているが、カーキ色のものは、石原保徳氏からいただいたもので一部欠巻がある。カーキ色の方が古く1956年発行のもの、藍色の方は1964年の改訂版である。
 それはともかく、表題にドン・キホーテがある二つのエッセイを見つけた。「中華民国の新<ドン・キホーテ>たち」(二心集、1931年)と「贋物と本物のドン・キホーテ」(「南腔北調集」、1932-1933年)である。二つともきわめて常識的なドン・キホーテ解釈の文章で、阿Qとの内的連関を示す内容ではなかった。
 他になにか手がかりはないかと探すうち、「阿Q正伝の成因」(「華蓋集続編の続編」、1927年、廈門)というエッセイを見つけた。そこで初めて『阿Q正伝』の成立事情を知ることができた。それによると、阿Qの映像は彼の心の中に何年越しにあったものだが、書いてみようという気はなかった。ところが「晨報」の編集者孫伏園の上手な説得で、1921-22年初めにかけて、その付録版に毎週連載の形で書き始めたそうだ。
 伏園はもっと長く掲載を続けてもらいたかったようだが、彼が帰省しているあいだに、魯迅が急いで結末をつけたらしい。といって革命に「乗り遅れた」阿Qが銃殺刑に処せられる大団円は、「<いい加減に>彼に与えたものでもない、初め書くときから予想していたかというと、それはたしかに疑問である。ぼんやりした記憶では、予想はしなかったような気はする」。なんとも不得要領な言い方だが、要するに書いていくうちに、阿Qというルンペン農民が一人歩きを始め、ついには中国民族の弱点をみごとに形象化した人物となったというわけであろう。
 傑作というものは、作者の緻密で用意周到な青写真から生まれるものではない。ドン・キホーテにしてから、作者セルバンテスの言うがままではなく、むしろ彼に逆らって勝手に生き始めたからこそ、あの不朽の名作が誕生したわけだ。そのあたりのことは、偉大なキホティスタ、つまり作者セルバンテスに忠実なセルバンティスタの対極に立つウナムーノが熱く語っている通りである。
 阿Qとドン・キホーテの比較研究には、したがって二つの論点がありそうである。つまり、いま述べたような作者と主人公とのあいだの、緊張を孕んだ一致と対立の関係、そしてそれによって作者の意図を越えて民族の精神構造の核心に触れているという事実、この二つの論点である。だが問題に迫るには、以前から漠然と想定していたように、中国と近代というさらに大きい問題を掘り起こす作業が必要になるであろう。そのためにも、これまで細々と続けてきたスペインと近代の関係の考察、すなわちいわゆる「スペイン問題」究明の手順が必ずや役立つはずである。(いいの、そんなできもしない大風呂敷を広げて)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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