また見覚えのない本を見つけた。ジュール・ルナールの『にんじん』(窪田般彌訳、角川文庫、1982年、41版)である。題名も作家の名も聞いたことはある。いや確かに大昔、その小説の映画化されたものも観た記憶がある。しかしその本を買った覚えはないし、ましてや読んだ記憶もない。中を見ると、四箇所ほどページが半分に折られている。こういう読み方をするのはばっぱさんしかいない。小説の最後あたりと宗左近の解説のところには、数箇所赤インクで線が引かれている。間違いない、ばっぱさんの痕跡である。
購入したのが1982年以降となると、私はまだ清泉女子大に勤め、一家は二子玉川に住んでいたころ。ばっぱさんは一人、原町で元気に一人暮らし、暇に飽かして日本各地に観光旅行に出かけ(行かなかった県は二つくらいしか残っていなかったはず)、いろんな本を買っていた時期である。中央公論社の『日本の詩歌』、『安藤昌益全集』、『八木重吉全集』、そして高橋和巳の文庫本などがそれだ。つまりなかなかの読書家だったわけである。
しかしルナールの『にんじん』は予想外だ。ばっぱさんがそのころ属していた県の文学サークル「であい」で、読書会のテキストとして使ったのであろうか。どうもそうではなさそうだ。唯一考えられるのは、むかし観た映画を懐かしく思って、たまたま本屋でその文庫本原作を見かけて購入したということである。
だが私自身、その映画をどこで見たか、まったく思い出せないのだ。内地に越してきてから観たのではなく、まだ帯広にいた頃に観たのではなかったか。映画『にんじん』はジュリアン・デュヴィヴィエ監督が1932年に作った映画だが、戦後間もなくのころ日本で上映されたはずだが、ネットで調べても分からない。しかし確かに映画館で観た記憶がうっすらと残っている。でもそれが帯広の映画館だったかどうかは自信がない。その頃の記憶としてはエノケンの映画くらいだが…
原題は Poil de carrote(赤毛)。主人公はニンジン色の赤毛でソバカス顔であることから<にんじん>とあだ名される少年である。彼フランソワは生まれてすぐ里子に出され、家に戻ってからも、要領のいい兄フェリックス、取り澄ました姉エルネスチーヌとは大違いに、両親とりわけ母には、まるでままっ子のように扱われる。そしてついには自殺までしようとして、ようやく親たちに<わが子>として認知されるという話である(らしい)。
物語の最初に、母から夜、「鶏小屋を閉めにいっておいで!」と言われるところがあるが、その場面は少年のソバカス顔と一緒にようやく記憶の底から浮かび上がってきた。わずかに月の光だけが差す暗い鶏小屋…
それにしてもなぜばっぱさんが赤線を引きながら熱心に読んだのだろう。
私自身がこの物語に感情移入したのはとうぜんである。つまり兄や姉が<実子>なのに自分は満人の子だと十歳くらいまで本気に思っていたからだ。そのことはわが『ピカレスク自叙伝』に書いている。きょうだいの構成が兄と姉がいて自分は末っ子だという点でも似ている。そして中学生になって今度は『次郎物語』に惹かれていったのも、次郎が<にんじん>と同じ里子経験を持った少年だったことも大きく影響している。
いま何気なく『次郎物語』を連想したのだが、もしかして下村湖人は自らの経験ばかりでなく、創作時にこのルナールの『にんじん』の影響も受けたのではなかろうか。継子物語はいつの世に人々を惹き付ける魔力を秘めている。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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